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History of Chiangmai Page 2

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チェンマイの歴史 page2


(四)帝国建国のための拠点

メンラーイ王とスコータイ王国のラームカムヘーン王は双方とも強い軍隊を誇っていた。しかし、両国とも争いを好まなかったため、メンラーイ王とラームカムヘーン王は、プーガムヤーオ(パヤオ)国のイン河のほとりで同盟国の公約を結んだ。証人にプーガムヤーオ国のンガムムアン候を招き、この三国は、その頃勢力を誇っていたモンゴル帝国の侵略を防ぐために協力することになった。
 モンゴル帝国の勢力は、 モンゴルの騎馬隊が通っ た後には血痕と涙しか残ら ない≠ニ言い表されていたほどだ。  メンラーイ王はそのこと をよくわかっていたのであ る。だからこそ、ウィアン クムカームに代わる強い都 が、王国の中心となる強い 都が必要だったのである。 そこで同盟国となったスコ ータイ国とプーガムヤーオ (パヤオ)国に相談し、適切な場所探しを行った。その結果、ピン河の東側の岸にふさわしい場所がみつかった。
 その場所は西に山(ドーイステープ)があり、山からの水が豊富だった。東にはピン河とメーカー川があり、北東方向には大きな湖があった。すでに占領したハリブンチャイ王国とケーラーンナコン(現在のランパーン)国ともそれほど 離れておらず、また洪水の心配もなかった。そして、先に建てたチェンラーイに行くのにも便利なところにあった。ドーイステープの麓には先住民族であるルワ族が集落をつくってすでに住んでいたが、まだ国にはなっていなかった。
 1296年(仏暦1839年)4月12日、王は都の建設にとりかかった。ラームカムヘーン王の助言に従い、まずスコータイ国と同じような城壁を築いた。一辺の長さが1.7qと1.6q四方の三重の壁を築き、5つの門をつくった。そして20メートル幅、4メートルの深さの堀をつくり、さらにその外側にメーカー川に沿って土の壁を築いた。街にはドーイステープから水がひかれた。そしてメンラーイ王の寝所のために寺が建立された。この寺をワットチェンマンといい、城壁内に建てられた最初の寺院である。都の建設にはハリブンチャイとルワ族の人々が徴集された。
 都の建設はほどなくして終わり、メンラーイ王の親族、友人、そして人民が招かれ宴が催された。この席で、王はこの新しい国を、ノッブリーシーナコンピン チェンマイ(9つめの繁栄する新しい都)≠ニ名付けると宣言した。ランナー(百万の稲田)王国の首都の誕生である。人々の感嘆と祝福の声が響くなか、メンラーイ王の心は、さらに国を拡大していく計画に向かっていた。

 

 


(五)王に訪れた死

 メンラーイ王がチェンマイを建てると、この街はランナー王国の統制下におかれた他の街の中心となった。重要な街、例えばチェンライは息子や信頼のおける部下に支配を任せた。すでに統治者がいる町では、統治者が王に従った場合はその統治者に引続き町の面倒をみさせた。統治者が王に従わなかった場合は武力で鎮圧し、その後武力を用いることのないよう協定を結んだ。
 このようにして、メ ンラーイ王は東西南北 へと領土を拡大してい った。ランナー王国の南にはスコータイ王国 があった。スコータイ王 国では仏教がとても繁 栄していた。そこで、 メンラーイ王もスコー タイから僧侶を招き、 チェンマイに寺院を建 て始めた。仏教を中心にして、この二つの王国は文化交流が盛んになっていった。ランナー王国の支配下におかれた人々は、文化に接する機会が増え平和に過ごすことができた。
 1317年のある日、メンラーイ王はチェンマイの中心部にある市場付近を歩いていた。すると突然、さっきまで明るく澄んでいた空が、雨でも降るかのように薄暗くなった。メンラーイ王は不思議に思って空を仰ぎ見た。そしてその時、予想もしなかった事態が起こった。天空から稲妻が降り落ち、メンラーイ王の体に直撃したのである。周りにいた人々はあまりに突然の出来事に呆然と立ち尽くすのみだった。数人が王に駆け寄ったがなにもすべきことはなかった。王はすでに息絶えていた。偉大な王の死は一瞬のことだった。このときメンラーイ王は78歳。強大な王も、想像の及ばない自然の力に立ち向かうことはできなかった。

 

 

 

 


(六)権力をめぐる兄弟の諍い

 メンラーイ王が亡くなった後、メンラーイ王の次男、パヤーチャイソンクラーム(クラーム)が王の葬式を執り行った。彼はその時21歳になったばかりの息子、ターオセーンプーに次期王の座を譲るために様々な準備をし、息子に王の座を与えた後は、チェンラーイに戻っていった。メンラーイ王の三男クルアは、かつて義理の姉と戦いをおこしたためにメンラーイ王によって追放されていたが、メンラーイ王の死と、 その後を甥が継いだ ことを知り、1年か けてチェンマイの王 になる計画を練り、 まずプラーオの街に 軍隊をおいた。ター オセーンプーはまだ 若くて幼く、自分の 叔父と戦う勇気がな く、チェンマイを逃 げ出してしまった。 クルアはその後に居 座り、チェンマイの王となった。
 パヤーチャイソンクラームは自分の弟が息子の国を奪ったことを知り、ファーンを治めていた次男のポーナームトゥアムに、チェンマイの奪回を命じた。ポーナームトゥアムは軍隊を率いてチェンマイを攻め、クルアを捕らえることに成功した。その後ターオセーンプーがチェンマイに戻って再び王の座についた。クルアは牢につながれ、4年後に死んだと言われている。
 ランナー王国、プーガムヤーオ国、そしてスコータイ王国は同盟国であったが、3人の王が亡くなった後にはその絆も薄れ、それぞれの国がそれぞれの国を欲しがるようになり問題が起こり始めた。スコータイ王国では、国内問題もしばしば起こるようになり、国力が落ちてきた。そしてとうとう、1636年にはチャオプラヤー河近くの低地に、ウートンを指導者とする新しい国が興った。スコータイ王族の血を引くこの指導者が率いる国の名は、アユタヤーという。

 

 


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