チェンマイの歴史
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(七)国々の興亡
スコータイ王国は力を失いつつあり、属国であるアユタヤーが力をつける機会を与えてしまった。ラウォー国やスワンナプーム国はアユタヤーを援助し、アユタヤーが国として栄えるきっかけを与えてしまった。そしてついに、スコータイ国がアユタヤー国に守られる、という逆転現象をおこしてしまう。
これに対してランナー王国は、確かに内部分裂をおこしてはいたが、まだ属国に力を与える隙を与えることはなかった。チェンマイは依然として王国の中心であり、メンラーイ王朝が国を治め続けていた。メンラーイ王朝第10代王のセーンムアンマーの時代1385年に、ア
ユタヤー国と戦うことに なった。理由はチェン ラーイを治めていた、マ ハープロム王がランナー 王国に対して軍隊を差し
向けたがランナー王国の 軍隊にはかなわず、アユ タヤー王国に助けを求め たことである。アユタヤ
ー国はランナー王国の土 地を以前から狙っており、 この機会にランナー王国 の属国であるケーラーン
国を攻撃した。しかし、 ランナー国は大きな軍隊を持っており、アユタヤー国は立ち向かうことができなかった。負けてしまったマハープロム王はセーンムアンマー王に謝罪し、ガンペーンペットのシヒン仏像を献上した。この仏像はワット・リーーチェンプラ、現在のワット・プラシンに安置されている。
ランナー王国とアユタヤー王国はたびたび戦いを起こしたが、決定的な結果になることはなかった。ランナー王国は、1450年頃のメンラーイ王朝第12代王、ティロッカラート王の時代に全ての面で一番繁栄した。ティロッカラート王は特に文化面でチェンマイを繁栄させた。王はチェンマイの中心となる寺院、ワット・チェディールアンを建てた。その仏塔は、街のどこにいてもその姿が見えると言われるほど巨大だった。そして一番偉大な事業がワット・ジェットヨートで行った、第8回世界仏教徒議会である。ワット・ジェットヨートの仏塔はプガーム国の寺院の仏塔を模倣したもの。またその仏塔は、インドのブッダガヤの仏塔を真似したものである。
1487年にティロッカラート王が亡くなった。、チェンラーイを治めていた、王の甥のヨート王がチェンマイを治めることになったが、8年しかもたなかった。国の管理方法が悪く、追放されてしまったのである。そこでティロッカラート王の息子である、ムアンゲーオが新しく王となることになった。この頃になっても、時々アユタヤー国と戦うことがあったが、そのうちアユタヤー国もスコータイ王国のように内部分裂を起こし始めた。指導者が度々代わり、ランナー王国と戦う力を蓄えることができないでいた。ランナー王国とアユタヤー国が停戦協定を結んだのは両国にとって最良の方法であったといえるだろう。ムアンゲーオ王の時代には、チェンマイの街では寺院の修復や新しい寺院の建立が頻繁に行われた。
ティロッカラート王の死後、ランナーの人々はとても繁栄していた。特に公務員たちは制度を支配し、権力をもっていた。もし王が気に入らなければ追放し、そうでなければ自分達の派閥から王をたてようと、いつも王座の奪い合いをしていた。時には、ラーンサン王国のチャイチョクターンのように、外国から王を招いたりした。
1551年、メークティ王の時代、ランナー王国は、10の方向で勝つと言われていた無敵のモン族の権力に屈した。このモン族の王は、のちにアユタヤーを決して忘れることの出来ないできごとに導くことになる。この王の名前を、"10の方向で勝つ者、ブレーンノーン"という。
(八)ブレーンノーンの台頭
ブレーンノーン王(又の名前をグルンホンサーリンダム王(舌に黒い痣のある王)という)は、トーンウー王朝時代に生まれ、闘いの素質に恵まれており、タベンチャウェティー諸侯の後を継いで諸侯となった。ビルマ中の指導者を集めてひとつにし、大きな国、ホンサーワディー国を建てた。昔の王が持っていた常識的な考えに、力を持った皇帝というのは一人で十分だという考えがある。ブレーンノーンもこう考えた。この地域には当時、豊かで強い軍隊をもった国にはランナーとアユタヤーの二つがあった。これらの国を統治下におくことができれば、ブレ
ンノーン王はただ一人の 皇帝となることができる。 しかし、この頃のアユ タヤー国は軍備的にとて
も強い力を持っており、 なかなか打ち勝つことが できないでいた(映画に もなったスリヨータイ妃
はちょうどこの頃、15 48年に産まれている)。 ランナー王国は、ラン ナー地方の中心で豊かな
国土を持っており、アユタ ヤー国との闘いの際の重要な食料供給地になると判断した。当時のランナー国は政権争いを繰り返していて軍隊の力が十分でなく、ブレーンノーン王を受け入れざるを得なかった。
こうしてブレーンノーン王は強大な軍力を持ちアユタヤー国と戦う準備が整った。アユタヤーはジャカパット王の時代だった。ブレーンノーン王は使者を送り、2頭の白象を差し出すように要求した。もちろんジャカパット王はこれを拒否し、ブレーンノーン王は軍隊を送り、激しい戦いを巻き起こした。とうとうジャカパット王は停戦を申し入れ、要求されるままに4頭の白象をブレーンノーン王に贈り、息子であるラメースワン(スリヨータイ妃との子供)を人質としてホンサーワディー国に送った。こうしてブレーンノーン王は軍隊を引き上げた。この闘いを、「白象(チャーンプアック)の闘い」という。
アユタヤー国はこの闘いで力を失い、内部分裂を引き起こした。ブレーンノーン王はこのことを知るとまた軍隊を送り込み、ランナー王国もこれを助けた。
アユタヤー国は1569年、完全にビルマに降伏した。ブレーンノーン王はピッサヌロークの指導者タマラチャーティラートをアユタヤーの王とし、ビルマの地位を与えた。タマラチャティラートはオンチャーイダムという名の息子を交換としてホンサーワディ国に送った。このオンチャーイカムは後にこの地に戻ってアユタヤーをビルマの支配から解放し、タイ人民の英雄となった。
(九)解放者ナレースワン
オンチャーイダムは、ホンサワディー国で、ブレーンノーン王の養子のようにして暮らすことになった。この時、オンチャーイダムは9歳だった。14歳になったとき、父であるタマラチャーティラート王は、娘のスパンガンラヤーをホンサワディー国に行かせ、代わりにオンチャーイダムを国に帰すよう求めた。ブレーンノーン王はこれを受け入れ、オンチャーイダムはアユタヤーへ戻り、名をナレースワンと変え、ピッサヌロークの街を治めることになった。
1581年、ブレーンノーン王はその生涯を閉じ、ナンタブレーンが跡を継いで王となった。新しい者が王に
なると、必ずその王を認め たくない者が出てくる。そ ういった者は、行事は儀式 に参加しないことで、その
気持ちを示す。ナンタブレ ーン王はそういう者を決し て許さず、軍を送って鎮圧 した。そのような場合、ナ
レースワンに軍の指揮をと らせると、彼は必ず勝ち、 成果を挙げた。ナレースワ ンの名声は国内外に広く知
られるようになった。15 83年、アンワ国の指導者 が力を持ち始めた。ナンタ ブレーン王は、プレー、ト
ーンウー、チェンマイ、ラーンシャン、アヨタヤーの各指導者を集め、アンワを鎮圧するよう命じた。タマラチャーティラート王は、年をとった自分の代わりに、ナレースワンをアユタヤーの代表として行かせることにした。
しかし、ナレースワンの軍隊は決められた日にちより遅れてしまった。ナンタブレーン王はこのことを知ると、ナレースワンは裏切り者で、アンワ国と手を結ぼうとしていると思い、警戒した。そこで、ホンサワディーの次期王候補であるウッパラーチャー王に、ナレースワンがホンサワディーに到着したらひとまず受け入れ、機会を狙って殺してしまうように命じた。ウッパラーチャーはこれをヤーギアットとヤーラームという家臣に伝え、クレーン国までナレースワンを迎えに行き、ホンサワディーに連れて来るように言った。ヤーギンとヤーラームはナレースワンと知り合いだったので、この暗殺の計画を聞いて困った。そこで、師であるカンチョン僧に相談した。カンチョン僧はこのナンタブレーン王の計画を聞いて驚き不満を示し、ナレースワンにこのことを知らせるよう促した。
ナレースワンの軍隊がクレーン国を通り過ぎようとした時、ナレースワンは自分の暗殺計画を知った。彼は怒り、各地に散らばっている自分の軍隊を呼び寄せ、「アユタヤーは自由であり、この先ホンサワディーに従う意思はない」と宣言し、同時に水を大地に注ぎ、神を証人とした。そしてすべての軍隊とともにアユタヤーへ戻った。このとき、ナレースワンは29歳だった。
しかし、闘いがこれで終わったわけではない。ナンタブレーン王はこの話を聞くと、更に怒りが増した。アユタヤー国がまた力を持ち、ホンサワディー国に刃向かうことに怒りを覚えたのである。歴史上に残る闘いは、これで回避することができなくなってしまった。
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