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History of Chiangmai Page 4

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チェンマイの歴史 page 4


(十)歴史的戦い

 ビルマに統治されていた頃のランナー王国は、ランナー王国内の街とビルマを結びつける役割を持たされ、小さくなっていた。それぞれの街の統治者もビルマ人であったり、地元の人であったりした。チェンマイの街を治める諸侯も、血族を跡取りにすることができず、ビルマに抵抗する力を蓄えることが出来ないでいた。ランナーとモン族はビルマとアユタヤーの間の境界地帯に位置し、ビルマとアユタヤーのどちらか大きな力をもったほうに占領される運命にあった。モン族は戦闘民族ではなく、考え、芸術を愛する民族であったので、いち早く占領された。ランナーはメンラーイ王朝が途絶えた後、あ る時期はビルマに統治され、あ る時期はアユタヤーに占領され たりを繰り返していた。  アユタヤー国のタマラチャテ ィラート王の時代、息子である ナレースワンは跡取りとして、 軍隊を統治していた。ナレース ワンがホンサワディーからの自 由を宣言した後、ビルマは何度 も軍隊を送ってきたが、ナレー スワン率いる軍隊に打ち勝つこ とができなかった。ホンサワデ ィーのナンタブレーン王は意気喪失し、これ以上攻撃をしてこなくなった。1590年、タマラチャティラート王が亡くなると、ナレースワンがアユタヤー国の王となった。ナレースワンはチェンマイの統治方法を変えた。人々の抵抗をおさえるため、自身の代理として街の統治者を選ぶようになった。アユタヤーが統治の中心であると知らしめるためである。従来通りのやり方だと、それぞれの街の統治者に権力が分散し、統治者たちはより力のある王族を信じる。そして少しずつ力を蓄え、中央の統治者に従わなくなる。ナレースワンが自分で街の統治者を選ぶようになって、こうした問題は解決した。税金の徴収も問題なくすすみ、アユタヤーは繁栄した。ホンサワディーのナンタブレーン王はアユタヤーの繁栄を見て危機を感じ、戦をしかけることにした。1592年、ホンサワディーの3軍隊、総勢20万人余りが進入し、ナンタブレーン王の後継ぎであるウパラチャーの先導で、境界であるプラチェディサームオンに進入した。迎え撃つアユタヤー国の軍隊は、10万人余りであった。
 戦いの最中、ナレースワン王の軍隊はホンサワディー軍に包囲された。しかし、勇敢なナレースワン王はウパラーチャーに一騎打ちを挑んだ。ウパラーチャーはこの挑戦を受け、象の背に乗った二人は戦った。ナレースワン王は戦いの技術については、ウパラーチャーよりはるかに長けていた。ウパラーチャー王は象の背でその生涯を終えた。ホンサワディー軍は自分たちの指導者が死んだことを知ると戦意を失い、アユタヤー軍がたちまちのうちに勝利を手にした。この戦いを、ユットハットティーの戦い(素手の戦い)と呼ぶ。


(十一)サヤームという国

 ユットハットティーの戦いは、ナレースワン王がビルマ軍を打ち破り勝利を手にした。
ビルマは、3つの国、トーンウー国、プレー国、アンワ国に分かれていた。ホンサワディー国は権力が衰え、トーンウー国に権力を奪われた。街は焼き払われ、人々とナンタブレーン王はトーンウー国に捕らえられた。
 ビルマの権力下にあったチェンマイの街とモン族の街は、ナレースワン王の勢力下に置かれることになった。アユタヤー国の権力は更に大きく、広い地域に広がっていった。ナレースワン王はビルマを支配する権力を持たなくてはならなかった。そこで アンワ国を攻撃するための拠点 として、チェンマイに軍隊を置 いた。軍隊を移動させている時、 ナレースワン王の顔に腫れ物が できた。この腫れ物は悪性のも ので、アンワ国に攻撃をかける 前にナレースワン王の命を奪う 原因となる。ナレースワン王の 弟、エーガートットサロットが、 ナレースワン王の後を継いでア ユタヤー国の指導者となり、ア ンワ国を攻撃していた軍隊を引 き上げさせ、戦いを終えた。  アユタヤー国の領土はナレー スワン王時代の後、サヤームとして諸外国に知られていくことになる。ビルマと戦うこともあったが、たいていは国境地域の小さな街の権力を抑えるための戦いだった。アユタヤー国には、海へ簡単に出ることのできるチャオプラヤー河があり、外国との貿易が盛んに行われるようになった。オランダ、フランスなどのヨーロッパ諸国、アジア国内では中国や日本との交流があった。日本との交流はエーガートットサロット王の頃に始まる。この頃、日本は徳川家康の時代にあたり、多くの日本人がアユタヤーに移り住んだ。最初は貿易のためだけであったが、そのうちアユタヤー国を守る傭兵となるものもいた。時折力があまり平静が破られることがあったがそのどれもが小さなことだった。
 諸外国との交易は、1511年にポルトガル人が商売と宗教の布教のためにやって来たのが始まりである。ヨーロッパ人達はサヤームから運航権や貿易権を得ようと必死になった。そこで、様々な条件、例えばビルマからの攻撃を防ぐのを手伝う、などという条件をつけることとなった。このような状況が約200年以上続いた。ヨーロッパ人の訪れによって、サヤームには近代武器がもたらされた。しかし、ビルマとの戦いは苦しかった。なぜなら、ビルマにも同様にヨーロッパ諸国から最新武器がもたらされていたからである。そしてどちらの国も貿易から利益を得るため国防に力を入れた。
 サヤームの王は国防の中心であった。アユタヤー王国創設から数えて5王朝、約400年以上が国防の時代であった。アユタヤー国に大きな変化を、繁栄を誇った国に戦禍の炎という変化をもたらしたひとつの原因がある。変化をもたらしたのはこれまでと同一の敵であり、その原因とは「第2次都を失った戦い」として知られている戦争だった。


(十二)トンブリーの王

 王の後継ぎは血統で決められることに重要性を置く。しかし、このことは、必ずしも強く賢明な指導者を生む要因ではない。アユタヤーも同じであった。
 1758年、エーカタット王が新しく王となった。後継ぎ争いの問題は大きく、新しい王は決まったがアユタヤー国内ではいまだ不満の種がくすぶり続けていた。アユタヤーの崩落の日はそう遠いことではない。
 ビルマでは、指導力のある戦上手の人物が王になっていた。当時、ビルマは富と人材に恵まれており、南へ権力を伸ばすのにちょうど良い時期にきていた。ビルマ の王は、アユタヤーの勢力下に ある土地に軍隊を送った。アユ タヤー軍はもちろんこれを迎え 撃ったが、ビルマ軍は自分達の ほうがはるかに力を持っている ことを見抜いた。アユタヤー軍 は、ビルマ軍がアユタヤー領土 に侵入してきたと知ると、各街 の軍隊を集め、首都のみを重点 的に守らせた。そのため、ビル マ軍は簡単に侵入することがで き、たちまち首都を包囲してし まった。
 エーカタット王は、こういう事態になっても強い指導者となることができなかった。ただビルマ軍の攻撃を防ぐことしか指示できずにいた。ビルマ軍は1年2ヶ月にわたってアユタヤーの街を攻め、ついに1767年4月7日、街を炎が走り、人々の悲鳴が街中にこだました。417年間に及ぶアユタヤーの繁栄は終わりを告げたのである。
 アユタヤー国が崩壊すると、ビルマ軍は生き残りの人たちをビルマへ強制移住させた。国内の町々はバラバラになった。戦火から逃げ、散り散りばらばらになった人たちの中には、新たに力をつけようとする者も現れた。タークの街の領主であった、中国系のシンという人物もそんな人たちのうちの一人だった。人々は彼のことを、タークシン候と呼んだ。
 タークシン候はジャンタブリーに人々を集めた。ビルマの権力をはねつけるため、小さな軍隊や各地の人々を集めて一つにまとめようとしたのだ。協力しない者は鎮圧した。そうしてタークシン候は大きな軍隊を持つようになった。軍隊はいくつもの小さな軍隊に分けた。小さくなったぶんだけ、移動の速度も速くなり、敏捷性が増した。こうしてビルマ権力を少しずつ退けていくと、タークシン候は新しく首都となるべき街を持つことを考えた。アユタヤーの街は死体が転がった壊滅状態であり、修復は難しい。やはり新しく街を建てるしかない。新しい街の場所は、同じくチャオプラヤー河の下流東側と決めた。首都を建てると、この新しい王朝をトンブリー王朝と名づけ、タークシン候は王となった。人々は今までと同じ名前でタークシン王と呼んだ。  タークシン王は、ドゥアンという名前の熟練した戦士を持っていた。この戦士は後に新しい王朝を築くことになる。その王朝とは、現在まで続くジャックリー王朝である。


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