チェンマイの歴史
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(十三)チェンマイ再建
ビルマはランナー国を200年以上にわたって支配した。しかしビルマ国内に問題が持ち上がると、ランナー国はアユタヤーに支配されたり(ナレースワン王やナーラーイ王の時代)、又はまったく自由になったりしていた。しかし、問題が片付くとビルマはまた戻ってきて制圧を続けた。ランナーは事実上、1558年から1774年までビルマの属国であった。それが、タークシン王の時代にビルマの侵略から復興した。
ビルマはランナー国を抑圧し、征服した。それはランナー国の財宝欲しさでありサヤーム国と戦うための人員欲しさのためであった。その姿勢に、ビルマに対して不服を持つ者がランナー国内に多く出てくるようになった。サヤーム国の領土からビルマ軍を追い出し、トンブリーの街を首都としたタークシン王は自発的に進み出たビルマへの抵抗者、ジャーバーン(ブンマー)侯爵とカーウィラ侯爵をランナーの奪回にあたらせた。 ビルマの侵略の拠点は2ヶ所、チェンマイとチェンセーンであった。ビルマからの解放はチェンマイから始まった。タークシン王の軍隊は素早く攻め込み、チェンマイの街の手前に
いた小規模の軍隊は抵抗することができなかった。チェンマイに着くと、カーウィラ侯爵はチェンマイの街に突撃し、ほんの短い時間でチェンマイは陥落した。ビルマの支配が終わった日、それが1774年のこの日だった。
戦争が終わると、ジャオバーン侯爵とカーウィラ侯爵はこの地に留まりたいと希望したので、タークシン王はそれを許し、ジャオバーン侯爵をチェンマイの統治者に、カーウィラ侯爵をランパーンの統治者に指名した。二つの地は、トンブリー王朝の統治下におかれた。戦争後のチェンマイは荒廃し、ビルマ統治時代のものも保護されていない状態だった。兵士も少数しか残っておらず、街を守るのには不十分だった。
ジャオバーンはチェンマイを2年間治めたが、亡くなってしまい、その後チェンマイを治める指導者が現れないまま20年間放っておかれた。そこでカーウィラ侯爵がチェンマイを統治することになった。カーウィラは城壁や寺院を修復し、チェンマイはやっと以前のように大きな街に戻りつつあった。その頃、チェンマイの街は建国から500年が過ぎていた。
1782年、タークシン王が統治するサヤーム国では大きな出来事が起こった。タークシン王は中国系の人物であったが、アユタヤー王朝時代からの貴族や官僚が王の権力を狙っていがみあっていた。タークシン王はタイ人たちが助け合わず、権力争いをしているのを見て残念に思い、出家をして様々な矛盾を是正しようとした。タークシン王配下のジャックリー侯爵はその時、カンボジアで戦いを行っていたが、この知らせを聞くと軍隊を連れてトンブリーに戻り、様々な問題を解決した。同年、タークシン王を抑えて即位式を行い、ジャックリー王朝のラーマ1世王を名乗った。正式名を、プラプッタ・ヨート・ファー・ジュラーロークという。
カーウィラ侯爵はサヤーム国に忠誠を尽くしていた。サヤーム国での出来事を知っても、引き続きヨート・ファー・ジュラーローク王に忠誠を誓う言葉を贈ったので、地位が上がり、サヤーム国統治下のチェンマイを治める君主となった。
1804年、カーウィラ王はビルマから攻めてきた軍隊を徹底して退けた。ランナーの中心地としての地位は、こうしてやっと戻ってきた。カーウィラ王は寺院の再建、植樹などを行って街の整備を行い、チェンマイの街にもう一度命を吹き込んだ。この整備は、1813年にカーウィラ王が亡くなるまで続いた。
(十四)生き残りをかけた駆け引き
1813、年カーウィラ王が亡くなると、その後はカーウィラ王の血筋が後を継いだ。チェンマイとランナーの地域は、引き続きサヤーム国に統治された。
この頃、サヤーム国はタークシン王の時代が終わり、ラーマ1世王の時代になっていた。王は1782年、これまで首都であったトンブリーの向かい側、やはりチャオプラヤー河の岸辺にラタナコーシンという新しい首都を建てた。建設当初、国を治めていく役人の数が少なく、アユタヤー時代の古い制度を使用しなければならない状態であった。まだ各地方都市を治める君主が力を持っていた。君主たちは中央政府であるサヤ
ームに貢物をし、労働力を出し、誓いの水を飲んで忠誠を誓った。当時の地方都市は、北部のランナー、東北部のラーオランシャン、東部のクメール、西部のタナーウシ又はタワーイ、南部のマラヤであった。この中で、ビルマの権力に落ちたくないがために、心からサヤームの力に屈していたのはランナーであった。その他の地方都市はサヤームの力怖さに屈している気持ちのほうが大きかった。そういった様々な気持ちから来る幾度もの反乱を抑え、サヤーム国はあっという間に国づくりをすすめた。その背景には、この頃盛んになり始めた諸外国との商取引があった。首都が海の近くになり、アユタヤー時代より貿易が容易になったことがその理由である。その頃、ビルマとはまだ国境問題があったものの、その他の近隣諸国との大きな戦いもなくなり、サヤーム国はその力を伸ばし、インドシナ半島で大きな権力を持つようになっていた。
サヤーム国が発展の道を辿っていた18世紀、ヨーロッパでは産業革命が起き、イギリスやフランスなどの国々はより大きな権力を手にするため、その勢力の範囲を広げていた。サヤーム国はその勢力に対抗するために急いで発展する必要があったのだ。やって来る西洋の国々に、サヤーム国は後進国で占領しやすい国であると思われないためには、西洋の言葉、そして近代的な知識が必要だった。
1824年より、イギリス勢力によるインドの統治が始まった。その勢力はビルマにも及び、ビルマとの間で戦争が起きた。イギリス勢力はビルマの土地を少しずつ占領していった。当時のビルマの王、ミンドンは新しい街をマンダレーに建てた。衰退はしたが、まだ力は残っていたのである。その頃、サヤーム国はラーマ4世王の時代にはいっていた。サヤーム国もまた、イギリスから不公平な貿易条約を結ばされていた。しかし王はそれに反抗することが、必ずしもサヤーム国によい結果をもたらすとは考えなかった。サヤーム国はひとまずその条約に従い、その後にだんだんと公平な条約を結ぶようになった。
ラーマ4世が亡くなった後、1868年にチュラローンコーン王がラーマ5世となった。しかしその頃はまだ法の整備が十分に進んでいなかった。
繰り返される戦闘の中心地でサヤーム国はまだ反撃を続けることができた。ビルマもまだイギリスと戦争を繰り返していた。戦いを繰り返すごとにビルマは国土を失っていき、とうとう1885年、イギリスはマンダレーの占領に成功した。これでビルマの王政は終わり、首都はヤンゴンに移された。その頃、ランナーはサヤーム国の保護下にあった。サヤーム国の政府は、他国の権力で国土を失わないよう、急いで国防の整備を推し進めていた。
(十五)チェンマイとサヤーム
ラーマ5世の時代初期の頃のチェンマイの町とランナーは、サヤーム国の統治の下、各都市の君主が力を持ち、街を治めていた。またこの頃、インド、ビルマ、マレー半島のいくつかの都市がイギリスの植民地となり、フランスがラーオランシャン(ラオス)、カンボジア、ベトナムを植民地とした。サヤームとランナーはどこの植民地にもなっておらず、大国の権力の狭間にあった。サヤーム国のラーマ5世は軍備力より外交に力を注いだ。しかし、強国の人たちはしばしば、サヤーム国に侵入する気配をうかがわせた。
ランナーは森林資源が豊富で、当時のチェンマイ君主はその恩恵を受けていた。しかし、徐々に問題が起こってきた。それはほとんどがイギリスの略奪や侵入だった。国境地帯ではしばしばイギリスが侵入して木材の伐採が行われた。チェンマイ君主はこの問題に頭を痛め、あるときイギリス商人に処罰を与えた。このことはイギリスの統治者に不満を与えた。この一件をサヤームに報告し、問題解決を求めたのだ。
ラーマ5世は1884年、ランプーン、ランパーン、チェンマイ、プレー、ナーンを含むランナー王国をモンドンパヤップという名でサヤーム国の一部として直接統治を行うことにした。チェンラーイとメーホーンソーンはこの後にサヤーム国の一部とされた。チェンマイはこれらの地域の中心地とされ、中央政府から役人が送られてきた。当初、直接統治の権利を失ってしまったということで、チェンマイの君主はこれを不服としていた。かつて持っていた権利権力は全て失い、残ったのは名誉地位だけであった。しかし、全てはよい方向に進んだ。ラーマ5世は、中央から送った役人に、君主を丁寧に扱うように徹底して言い含めていた。そして、血筋についてもランナーとサヤームの融和がなされた。チェンマイ第7君主インタウィチャヤーノーンは、娘のダラーラッサミー妃をラーマ5世の側室として送り出した。ダラーラッサミー妃こそが、サヤームとランナーの二つの文化を結ぶ橋渡しの役割を果たすことになる。
たくさんの学校が建てられ、全国同じ教育が、中央タイ語を使って行われるようになり、ランナー語はだんだん忘れられていった。当時、バンコクからチェンマイに来るのはとても困難だった。鉄道もまだチェンマイには到達しておらず、繁栄はすべてバンコクにあった。バンコクからチェンマイまでは、河を遡って2〜3ヶ月の船旅をするのが常であった。ビルマからの商人のほうが、まだ楽な旅をしてチェンマイに着くことができた。当時、チェンマイとランパーンにはビルマからの商人が多く訪れて商売をしていた。これらの商人たちは寺院建立に多くのお金を寄付していた。こうして、チェンマイとランパーンにはたくさんのビルマ風建築の寺院が建てられた。バンコク通貨のバーツは、まだチェンマイでは流通していなかったので、ランナーの経済はイギリスに支配されていたビルマに負うところが多かった。
このように、西洋諸国の植民地政策から逃れるための努力は大変なものだった。植民地になることを逃れるには、チャクリー王朝の偉大な王、ラーマ5世の知性と辛抱が不可欠の要素だった。
(左)ラーマ5世(チュラローンコーン大王)
(中)ダラーラッサミー妃
(右)チェンマイ第7君主インタウィチャヤーノーン
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