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History of Chiangmai Page 6

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チェンマイの歴史 page 6


(十六) ラーマ5世の力

 

ランナーはサヤーム国の一部となり、モンドンパヤップ(パヤップ省)となった。かつて、自由にできる権力を持った君主には、町の首領であるという地位と、一握りの土地が残っただけだった。多くの君主たちは不満を持っていた。西洋諸国がこのあたりを狙っているという状況だったが、それぞれの街はまだサヤーム国と同じ民族、同じ国であるという意識がなかった。これでは他国に植民地として占領されても仕方がなかった。サヤーム国は、国が発展していけるよう、モンドンパヤップからも税金を徴収した。サヤーム国は西洋諸国から主導権をとろうと懸命だった。そのために多くの問題に譲歩、妥協した。例えば、1892年、サヤームはランナーの土地の一部を失った。この土地はニアオ族とカレン族の土地であったが、いつもイギリス商人たちとの問題が絶えない場所であったので、イギリスとの問題を避けるために失ったのだ。さらに、フランスとの問題を避けるために、1893年にはコーン河の左岸、現在はラオスであるが当時はラーオシャン省(モンドンラーオシャン)であった土地をなくした。1903年にはナーン領地内のコーン河右岸の土地をフランスに手渡した。
 サヤームの独立を守るための手段として、ラーマ5世はヨーロッパ諸国の王族と友好を深めるため、しばしばヨーロッパを訪れた。イギリスとフランスに脅威を持っていたロシアの王族や、ドイツとの友好条約は大切なものだった。イギリスとフランスは協力してタイを占領し、チャオプラヤー河で分けるという考えも持っていたのだ。ドイツは工業の面についてイギリスと競争をしていたし、フランスと国境を接していた。ドイツの軍備力は強固であったので、ドイツとの友好条約はイギリスとフランスの対タイ外交方針に影響を与え、情況は格段に良くなった。ラーマ5世は子息たちをドイツに送り、軍事、医療、防衛などいろいろな分野の勉強をさせた。
 諸外国との嵐が過ぎ去ってから、王は国内の問題の整理に乗り出した。交通や商売に便利なように道路が建設整備され、タイ国内の主要都市を結ぶ鉄道が建設された。学校が普通の人々にも開かれるようになった。これまでは、学校教育は身分の高い人の子弟のものだった。普通の家の子供たちは寺院で学び、女子は勉強できなかった。さらに、外国の宗教がはいってくるようになった。キリスト教はいろいろな知識とともにやってきた。防衛も近代様式に変わった。ラーマ5世は留学していた子息をタイに呼び戻し、その能力を発揮させた。そして西洋諸国にならって、奴隷制度を廃止した。
 ラーマ5世の時代に、様々な面が近代化、改良され、サヤームは主権を持った国になることができた。サヤームの人々は親しみと畏敬をこめて、この王をピヤ大王(プラ・ピヤ・マハーラート)と呼ぶ。その意味は、「人民を愛する偉大な大王」という意味である。


(十七) チェンマイの教育


サヤーム国が国家としての発展を続けるなか、ランナーは領土内のプレーの街で、統治者への不満が原因のニアオ族の反乱が起きたりはしたが、徐々に発展せざるを得なかった。ランナーでは、言葉も文化もサヤームとは違っていた。そこで、この部分の改善のため、教育に対しての対策がいち早く行われた。ランナーの子供たちに、サヤームと同じ言葉、文化を教えるのを目的として中央と同じ教育を受けられる学校の建設が始まった。この計画以前、チェンマイに開校した初めての学校は、アメリカ人宣教師によって1887年に建てられた、ワンシンカム学校だった。ここでは、ランナー語と聖書を教えていた。サヤーム政府は、これに加えて公立の学校を建てた。チェンマイの真ん中、第8代チェンマイ君主インタワローロットスリヤウォンの土地に建てられたこの学校は、モンドンパヤップ学校という。ここでは全国共通の言葉と文化を教えた。
 1905年、サヤームのワチラウット王子がランナーを訪れた。王はチェンマイに着くと、この二つの学校を見学した。そして学校の発展のために資金を提供した。この出来事を記念して、ふたつの学校は名称変更した。公立の学校はユパラートウィッタヤーライ、ワンシンカム学校は英語を用い、プリンスロイヤルカレッジとなった。
 1910年、サヤーム国に大きな出来事が起こった。ラーマ5世が58歳で亡くなったのだ。王位には42年間ついたことになる。ワチラウット王子がラーマ6世として即位し、プラ・モンクット・グラオ・ジャオユーフアと名乗った。王は、ラーマ5世がまだ終えていなかった多くの事業を継承して行った。
ラーマ5世が亡くなったとき、ダラーラッサミー王妃はラーマ6世に願い出て、チェンマイへ戻った。インタワローロットスリヤウォン君主が、ダラーラッサミー王妃の住居を用意した。チェンマイに戻った王妃は、チェンマイを統治してきた歴代の先祖たちの遺骨が、各地に散らばって埋葬されている事実を知った。そこで彼女は、遺骨をできるだけ探してワット・スアンドークの境内に埋葬した。これより後、ここが君主たちの墓所となった。王妃はさらに、チェンマイで初めての女子のための学校を支援した。ここでは、裁縫と礼儀作法を教えた。この学校は現在、ダラーウィッタヤーライとなっている。
こうして、当時のチェンマイはランナー地域の教育の中心地となった。多くの外国人が宣教師としてチェンマイにやってきた。西洋の様々な考えや知識が次々とチェンマイに持ち込まれるようになった。チェンマイ君主は、地元の人たちの尊敬の対象ではあったが、何の権限もなく、中央政府と土地の人たちを結びつけるための役割を担っていた。この役割により、中央政府から公務員のように給料をもらっていたのである。この事実から、統治権力のほとんど全てがサヤームの首都としてのクルンテープに移されてしまったことがわかる。


*1925年、ラーマ7世がチェンマイを訪れた。(十八) チェンマイの近代化

 1911年、チェンマイの君主、インタワローロットが亡くなった。ジャオゲーオナワラットが陸軍少尉の地位で、第9代チェンマイ君主の跡を継いだ。
 チェンマイの指導者の持つ権力は徐々に減り、サヤームの権力が増していた。インドやビルマ(この両国はイギリスの植民地であった)の商人が持ち込み、タイ北部地域で流通していたインドのルピーに代わり、サヤームのバーツが入ってき始めた。1921年、バンコクから延びた鉄道がチェンマイにたどり着くと、バンコクからチェンマイまでの道のりはずいぶんと楽なものになった。中国商人の血をひくサヤームの商人たちが多くチェンマイにやって来た。鉄道駅から市内までの道は、中国商人の経営による店が多く建ち並ぶようになった。ビルマ人やインド人はターペー通り周辺で商いを行った。ビルマからの商人たちは、儲かったお金で寺院の建立や補修などを行った。その名残は現在もチェンマイ市内にあり、多くの寺院でビルマ風の仏塔を見ることができる。インド人商人は服飾関係の商売を行い、中国人商人は、いも類や薬、米や日用品を扱うことが多かった。地元のランナー人たちは多くが農業に従事していた。
 1925年、ラーマ6世が亡くなると、プラ・ポック・グラオ・ジャオユーフアがラーマ7世に即位した。そして、チェンマイにも訪れた。ジャオ・ゲーオナワラット陸軍少尉は謹んで王の訪問を迎えた。サヤームとチェンマイは上流階級では友好な関係を結んでいた。しかし、ランナーの一般民衆の人たちは、サヤームの人たちから、ラオス人とか後進国の人たちと見られていた。当時のサヤームの社会は権利田制(禄田制)であり、人々をいくつもの階層に分けていた。管理権力を持った上流階級の人たちの多くは、下の階級の人たちを軽く見ていた。ヨーロッパの国々ではこのことが原因で民衆による革命を繰り返してきた。この流れはこの国でも静かに始まろうとしていた。ヨーロッパに学ぶサヤームの若者たちがヨーロッパの国々の革命の事実を知ろうとしていたのである。ラーマ7世もこの時代の流れを自覚していた。若者たちの、時代や制度を変えていく動きはやがて止められないものとなっていく。

 

*1925年、ラーマ7世がチェンマイを訪れた。


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