第一次世界大戦の影響で経済状況が悪くなったラーマ7世の時代の1932年、サヤーム国に大きな変化が起きた。ヨーロッパ留学を経験した若者や若い公務員たちでつくったグループ「カナ・ラート(人民グループ)」がラーマ7世に謁見し、新しい国防体系について提言したのだ。彼らはサヤーム国は民主国となり、国中が同一の憲法に従わなければならないとした。各地の領主も同一憲法のもとでの地位につかねばならない。この方針は、経済状況の悪化にあった。各地
の君主の体系も国の発展の助けにならないとしたのだ。なぜなら国の体系というものは高い位の者たちによって占められており、知識才能はあるが地位が高くない者にとっては開かれていなかった。これでは国の発展も遅い。
ラーマ7世はこれに理解を示した。なぜならかつて同じことを考えたことがあったが、時期尚早だと思い実行しなかったことがあるからだ。しかしこれに反対する要求も起こり、国はふたつに分かれた。そこで王は王位を放棄し、統治権を人民党に委任した。人民に権利を戻す憲法をつくる政府のために。ラーマ7世は王位を退いた後、外国で静かに余生を送りそこで人生を終えた。
サヤーム政府がつくられ、悪化した経済状況にあわせた新しい国の統治方針がたてられた。その過程で、各地の不用と思われる体系の整理も行われた。各地の君主は、サヤーム政府から給料を受け取っていたが、これも不用として整理されることになった。1926年以降、現在の君主を最後とし、新たな後継者はつくらないとした。1926年当時に君主の地位にある者は、亡くなるまで今まで通りに政府から給料が支給された。
当時のチェンマイ君主は第9代君主のゲーオナワラットであった。彼は1939年に亡くなり、それ以降チェンマイには君主は置かれなかった。君主の血族は、ナ・チェンマイという姓を名乗るようになった。ナ・チェンマイ以外のいくつかの姓、例えばインタウォンという姓などもチェンマイ君主の血筋をひく姓である。ランナー地方最後の君主は、第10代ランプーン君主のジャッカムカジョンサックで、彼は1943年に亡くなった。これ以降、ランナーの各街はサヤーム国のひとつの県となり、発展していくことになった。
| 7-8世紀 |
ハリブンチャイ王国ができる。ラォー王国からジャマテウィー女王が招かれ、指導者となる。
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| 8世紀 |
チェンセーン国がメコン河流域にできる。のちに大国となり、チェンルン、チェントゥン、ラーンシャーンなどの関連国がメコン河周辺にできる。 |
| 12世紀 |
メンラーイ王がチェンセーン国の指導者となり、メコン河周辺の町を勢力下に置く。 |
| 1262年 |
メンラーイ王がチェンラーイを築く。1274年にはファーンに町をつくる。 |
| 1292年 |
メンラーイ王が、イーバー王率いるハリブンチャイ王国を倒す。その後、近くにウィアンクムカームという新しい街をつくるが、たびたび洪水に見舞われたため移動を余儀なくされる。 |
| 1296年 |
メンラーイ王がもう一度新しい街をつくる。スコータイ国のラームカムヘーン王とプーガムヤーオ国のンガムムアン王の協力を得て建てた街を、チェンマイと名付ける。チェンマイはランナー王国の首都となり、メンラーイ王はメンラーイ王朝の創始者となる。 |
| 1350年 |
スコータイ王国の勢力が衰え、チャオプラヤー河畔にアユタヤー王国ができる。 |
| 1558年 |
ランナー王国が、ブレーンノーン王率いるビルマ勢力に襲われる。ブレーンノーン王はメンラーイ王朝を打ち破り、勢力を広げる。ランナー王国を足がかりしたビルマはアユタヤー王国と戦いを続け、1569年にアユタヤー王国はビルマに負ける。 |
| 1584年 |
ナレースワン王がアユタヤー王国をビルマから解放する。解放後、アユタヤー王国はビルマと24回にわたる戦いをし、1767年、アユタヤーは二回目の敗北をする。アユタヤー国内は荒廃し、人々は各地に散らばった。 |
| 1767年 |
1767年 タークシン王がビルマ勢力を追い払い、アユタヤー国から南下した場所にトンブリー王朝を開く。ケーラーン国(ランパーン)のカウィラ王がトンブリー王朝の命を受け、ランナーの土地のビルマ勢力を追い払う。カウィラ王はチェンマイの街を、ランナー地方の中心地として再建する。 |
| 1771年 |
タークシン王がトンブリー王朝を開いてから4年後、ジャーバーンとカウィラが300人の兵を従えてランナーの土地のビルマ勢力を追い払おうとするが、失敗に終わる。そこで2人はタークシン王に忠誠を誓って協力を仰いでビルマ勢力を追い払う。しかし、ランナーの地からビルマ勢力が完全に追い払われるのは、約30年後の1804年、チェンセーンでのことだった。
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| 1774年~1796年 |
チェンマイの街は統治者を失い、荒廃する |
| 1782年 |
タークシン王が王位を捨てる。チャックリー王が代わりに王位に着き、チャックリー王朝を開く。新しい街ラタナコーシンを、チャオプラヤー河を挟んで向かい側に建てる。ランナーはこの変化が起こっても変わらずサヤームに忠誠を誓う。 |
| 1796年 |
ランパーン領主であったカウィラ王が、ラーマ1世に命じられ、第1代チェンマイ領主となる。カウィラ王は、ジャオ7トンと呼ばれる家系の出身である(同族のなかの7人が一国の領主となったからである)。チェンマイは建国から500年を迎える。 |
| 1813年 |
カウィラ王死去。領土をシップソンパンナーまで広げ、チェンマイを再度ランナーの中心地にした。
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| 1815年 |
カウィラ王の3番目の弟、タンマランガーがラーマ1世に命じられ、第2代チェンマイ領主となる。この時代、チェンマイは平和で寺院の再建などが行われた。タンマランガー王は1821年に亡くなる。 |
| 1823年 |
カウィラ王の6番目の弟であり、ランプーン領主を務めたこともあるカムファン王が、チェンマイ領主に選ばれる。3年間チェンマイを治め、1825年に亡くなる。 |
| 1826年 |
カウィラ王のいとこである、プッタウォン王がチェンマイ領主となる。プッタウォン王は、カウィラ王がビルマ勢力と戦った際に重要な役割を果たした人物である。彼がチェンマイを治めた時代、ビルマはイギリスとの戦争を始めたので、ランナー地方はビルマからの侵略を受けずに済んだ。プッタウォン王は1846年に亡くなる。 |
| 1847年 |
チェンマイ領主マホートプラテート王が3回にわたってチェントゥンに攻め込むが、チェントゥンの地を得ることはできなかった。この頃、イギリス人たちがランナーの地で木材の商売を行いだす。
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| 1856年 |
完全な権力を持った最後のチェンマイ領主、ガウィローロット王が領主となる。この頃、キリスト教がチェンマイに入り始める。木材商のイギリス人の数も増え、チェンマイ領主との間で問題を起こすようになる。この問題解決のため、サヤームがランナーの土地をモンドンパヤップという名前でサヤームの統治下に置く。 |
| 1873年 |
権力を失った最初の君主、インターウィチャヤノーン王が君主となる。この頃、サヤームはラーマ5世の時代で、インターウィチャヤノーン王の娘、ダラーラッサミー妃がラーマ5世の側室としてバンコクへ行く。君主はチェンマイ統治に関する権力を持たず、名前だけの名誉職であった。 |
| 1901年 |
チェンマイ君主インターワローロットスリヤウォン王が、サヤーム政府から地方君主として給料を受け取る。この年、プレー県でプレー君主たちが中央政府の統治に不服だとして反乱を起こす。サヤーム政府はすぐさまこれを鎮め、ランナー地方統治をさらに組織立ったものにする。これ以降、ランナー地方で反乱が起こることはなかった。 |
| 1911年 |
最後のチェンマイ君主、ゲーオナワラット王が君主となる。ゲーオナワラットの死後、サヤームは誰に対しても君主を名乗ることを許可しなかった。
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| 1932年 |
ラーマ7世の時代、サヤーム国の統治方法が新しくなる。ランナー地方はサヤーム国の一部となり、ランナー地方の国々はそれぞれ県となる。 |
| 1996年 |
チェンマイは建国700年を迎える。 |
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チェンマイの歴史は、今回が最終回となります。間違いも数々あったことと思います。この場を借りて読者の方々にお詫びいたします。
連載にあたり、多くの文献にあたりましたが、文献によって、年代や史実の捉え方が違うことが多々ありました。北部タイの歴史についてはまだ系統立てて研究がなされていないようです。文献数も中央タイの歴史に比べてまだまだ少ないのです。中央タイが関係しない、北タイ独自の歴史は、700年から1000年の出来事です。事実かどうかを証明するのはとても難しいことです。筆者の想像や考えが記載されることも多いようです。
私も、楽しく読んでもらえるように、想像を交えて書いてきました。読者に皆様が、これをきっかけに現在のチェンマイに至る様々な事実に興味をもってくれたら、こんなにうれしいことはありません。これからも、別のコラムで、チェンマイの歴史に関する様々なことをご紹介できたらと思っています。どうもありがとうございました。 |