LANNA EXPLORER 日本語フリーコピー誌 on WEB

Variety

Back to Home

日本軍の足跡を訪れる


文/写真 小和田 佐重


 第2次大戦中、日本軍はチェンマイに約3万人駐屯していたという。幸いにもタイは戦場にならなかったせいもあり、タイにおける日本軍の足跡についてはあまり多くは語られていない。チェンマイには、ワット・ムアンサンに、遺族によって慰霊碑が建てられている。今回、ビルマ国境での日本軍の足跡を訪れた。 早朝、チェンマイより南回りに国道108号線を南下。ホート、メーサリアンを通り、そこから北上。しばらく進むと、チークの林の中を突き抜ける。一面チークの大きな葉の落葉だ。その上を掻き分けながら通り抜ける。なんともいえないほど気持ちがいい。熱帯にいることを忘れさせられてしまいそうだ。この辺りは、バーン・マイサックという。「チークの村」という意味だ。さらに北上を続ける。チェンマイより300キロ、ようやくクンユアムの町に至る。夕方5時、ゲストハウスに宿を取る。
 翌朝、まずワット・ムアイトーを訪れた。タイ・ヤイ・スタイルの美しい寺院だ。ワット・ムアイトーと隣接したワット・フアウィエンは、戦時中、野戦病院、通信センター、軍票印刷所のあったところだ。
 1944年1月、ビルマ占領中の日本軍は英印軍対策として、インド北東部の都市印パール攻略を命令した。ビルマ方面軍(川辺昭三中将)傘下の第15軍(牟田口兼也中将)が、祭第15師団、列第31師団、弓第33師団を率いて、インパールに進軍した。しかし同年7月、補給路なく多くの犠牲者を出し、作戦失敗、撤退した。日本軍の戦死者3万人、戦勝病死者4万2千人にも上った。世界戦争史上最も悲惨な作戦といわれている。
 日本軍兵士は、ビルマ国境を越え撤退。ここクンユアム、そしてチェンマイを目指した。クンユアムの住民は殆どがタイ・ヤイ族。ここに、負傷したり、病気になった兵士がたどり着いた。すべての住民は兵士にできる限りの世話をした。しかし、病気が深刻になり、亡くなる兵士が後を絶たなかった。クンユアムだけでも7千人の兵士が亡くなったという。
 僧侶に寺院を案内してもらった。地元クンユアム出身ということがだ、5年前からの奉公ということで、戦時中の日本軍のことについては、知識はなかった。この寺の境内の多分、野戦病院跡に、「タイ、ビルマに眠る日本兵士に捧ぐ クンユアム星露院」が建てられていた。入口には伊藤桂一氏による兵士への哀悼の詩が供えられていた。「天に星 地に草の露 はるかに故国を恋いつつ ここに兵士らの 御魂眠る ただ虫の声のみ その武勇のあわれみを悼むなり」 僧侶が鍵を開けてくれた。中には祭壇が設けられていた。
 境内の隅に、「ビルマ戦線将兵鎮魂之碑」(平成7年11月吉日建立)が、さらに奥には、「日本軍将兵遺骨埋葬の地」の碑が建てられ、日本に持ち帰ることができなかった兵士の遺骨を祀ってあった。しかし残念ながら、あまりきれいには維持されていないように見受けられた。ここには最近はあまり日本人が訪れてはいないと僧侶は話していた。奥まったところにあるので気が付き難いのであろう。
僧侶に礼を言って、寺を後にした。
 続いて、道路を挟んで斜め向かいにある「ビルマ戦線資料県立博物館」を訪れた。前の庭に錆で赤茶けた軍用トラックの残骸がいくつか展示してあるので、容易にここが目指す博物館であるとわかる。
 博物館は1995年クンユアム警察署の署長チャートチャイ氏による発起で建設された。軍刀、銃、外套、持ち主の名前の書かれた水筒、飯盒など600点余りのおびただしい遺品が展示されている。いずれも保存状態がよく、特に外套など良くぞきちんと残っていたものだと驚愕した。これらのほとんどはクンユアム住民から提供されたものだ。博物館建設当時、ほとんどどの家にも日本軍の遺品が残っていたという。兵士はこれらと引き換えに食物などの提供を受けたとのことだ。傷つき飢えた兵士は略奪行為は行ってはいなかった、と博物館管理人は話してくれた。
 午後、クンユアムの町を後にしてメーホーンソーンに向かう。町を出たすぐ右側に、森が大きく切り開かれた平坦な所があった。日本軍飛行場跡であろうか。
 さらに行くと、かなり激しい山道になった。クンユアムから30キロ余りのところの村バーン・フアイポーンに、「日本軍兵士鎮魂之塔」が建っていた。碑の裏には「2000年11月吉日 倉敷有志建立」と記してあった。傍らの大木の前に遺体を埋葬したのだろう、大木には「戦友よ安らかに眠れ」と記してある。1998年、厚生省によってこの村で遺骨が収集された。
 撤退路の両側に点々と遺体が1キロにわたって転がっていたというのは、この辺りのことではないだろうか。ここが正に「白骨街道」だったのだ。
 慰霊碑に持ち合わせの水をかけた。
 さぞかし望郷の念が強かったであろう。無念。哀れ。・・・。適切な言葉が浮かばない。
 合掌。
 メーホーンソーンを過ぎると、道は更に険しくなった。ようやくパーイにたどりついた。パーイの先10キロのところには、日本軍の建設したパーイ川に架かる鉄橋が残っていた。パーイ川の辺にあるワット・パーカム付近には、かつて日本軍の基地や墓地があった(墓地は洪水によって流されてしまった)。
 この後、メーマライの町を通り過ぎ、チェンマイに戻ってきた。総距離700キロ余りだった。
 次回は日本の線香、日本酒を持参して訪れたいと思う。

(Aug.2003)


メーホーンソーンパダウン族の村訪問

文/写真 小和田 佐重

パダウン族は、タイ語ではカリアン・コー・ヤーオ(首の長いカレン族)と呼ぶが、日本では首長族(くびながぞく)と紹介されている。タイでは、メーホーンソーン県とチェンラーイ県に居住している。メーホーンソーンにはナイソーイ村、フアイスアタオ村の3ヵ所に居住している。
 今回は一番大きい村、ナイソーイ村を訪れた。メーホーンソーンの町から国道1095号線を北上し、左折。パイ川を渡った後、タイ・ヤイ族の村バーン・ソップソーイでまた左折、村の中を通り抜ける。ここまで30分ほどのドライブだ。道は非常にいい。しかし、舗装路はここまで。ここから悪路になる。川の中に作った道を渡り、カレン族の村のある激しい悪路を登った後、ようやくナイソーイ村にたどり着いた。ビルマとの国境まであと3キロのところだ。今回は乾期だったので悪路の中でもたどり着くことができたが、雨期には、川の道は流れの中に沈む。さらにその後のラテライトの道はどろどろになって滑りやすい危険な道になるだろう。日本で報道されるような、観光目的でパダウン族を移住させたのならこんな僻地に住まわせるはずはない。
 入口で入場料250バーツを払い、いよいよパダウン族の集落まで歩いて行く。しばらく行くと、絵葉書から抜け出したような首の長いパダウン族の女性たちに遭遇した。彼ら皆、家の前で思い思いに土産物を売っている。彼ら自身が織るコットンの布以外は、どこにでもあるものばかりで、特別なものはない。
 彼らは皆、タイ語で、店の脇のベンチに座るように言った。誘われるまま腰を下ろし、会話を楽しんだ。彼らは普段カレン語を話すが、村の学校でタイ語の教育を受けているので、タイ語もきちんと話す。興味のあるいくつかについて聞いてみた。
 彼らは1988年ビルマ政府軍と少数民族との内戦の際、ビルマ政府により、住んでいた土地を強制的に退去させられ、多くの人々が迫害された。その内の一部が国境から3キロ入ったここまで逃れてきて、政治難民として暮らしている。ビルマにはまだ多くのパダウン族が暮らしている。
 パダウン族は、本来は農業を生業としているが、タイでは農地の確保が難しく、難民のため法律上仕事ができないでいる。そこでタイ政府の思惑もあり、観光目的で彼らの生活を公開している。入場料250バーツは、彼らの食費、医療費、教育資金に当てられている。
 信仰は仏教の影響を受けた精霊信仰である。精霊が村を守り、幸福にし、また不幸にもすると考えられている。女性が首を長くするのも、信仰の影響によっている。満月の水曜日の午後に生まれた女性は不吉とされ、その女性だけが「厄除け」のために首に真鍮の輪を巻くというのが風習であった。およそ5才からはじめ、1年に1〜2個ずつ増やし、15-16才まで習慣を続ける。ただタイでは、観光目的のため、ほとんどの女性が真鍮の輪を巻いている。彼らは「首の長い女性の方が美人だから」と言っていたが。入浴時には、いつも首輪を磨き、清潔にしているので、誤解のないように。また、実際は首が伸びたのではなく、真鍮の重みで肋骨が下がり、首が長い見えるということらしい。
 日本語の話せる女性が一人いた。観光で訪れる日本人から日本語を聞きかじりで覚えた、ということだ。結構しっかりとした日本語を話す。
 彼らの織った布や、その他いくつかの買い物をして、隣のカヨウ族の村へ移動した。タイ語ではカリアン・フー・ヤーオ(耳の長いカレン族)、日本では耳長族と呼んでいる。カヨウ族はタイ語をほとんど語さないので、生活ぶりなどの質問が難しかった。以下は、パダウン族と、後で車の運転手のタイ人(タイ・ヤイ族:メーホンソーンはタイ・ヤイ族が70%近い人口を占める)に聞いた話である。
 ビルマには2万人程度居住しているようだが、タイでは100人ぐらいである。どうやら1994年、観光目的でタイに居住したようだ。耳のピアスの穴に銀の輪をはめ込む。銀の輪を徐々に大きくしていき、その重みで耳が長くなる。村には教会があり、キリスト教を信仰しているが、伝統的には精霊信仰である。
村には、パダウン族との共用の学校があったが、隅のほうに無造作に机が積みかさねられ、それほど熱心には授業をしていないように見受けられた。
 今回はわずかな時間の訪問ではあったけれど、興味深い時間を過ごすことができた。皆さんも是非パダウン族の村を訪問し、彼らの生活を支えてやっていただきたい。

(Sep.2003)


ファランの街 パーイ

文/写真 小和田 佐重


 ファランが呼ぶユートピアの街、パーイに初めて行ってきた
 チェンマイから北へ30キロ北上するとメーマライに至る。ここで三叉路を左に曲がる。ここから激しい山道が100キロほど続く。パーイの町10キロ手前には第2次大戦中、日本軍の造った鉄橋が残っていた。この辺りが日本陸軍の補給基地、野戦病院、墓地があったところだ。日本兵はここからメーホーンソーンを通過し、ビルマ、インパールに進軍し、そして敗走してきた。
 ここを通り過ぎて20分ほど、ようやくパーイの町に到着した。

 第一印象は、まるで軽井沢。タイ人はほとんど目に付かず。ファランがうようよ闊歩している。多分、カオサンと同じ状態ではないのか? 特に、道幅が狭いチェイソンクラム路には、たくさんの店と店とがひしめき合っている。落ち着きが感じられない。
 かつてのパーイは山々とチークの森で囲まれたな小さな盆地のちいさな村。コンムアンの人々はニンニクと大豆、米の生産で生計をたて、彼らの暮らしはのどかそのものだった。いつの頃からなのか、外人旅行者がこの村を訪れ、住み着く人も現れ、やがて多くのバックパッカーが集まるファランの町へと変貌していった(十数年前からであろう)。

 パーイ川の畔のゲストハウスに宿をとった。あいにくバンガローには空きがなかった。ありあわせの木材で造ったような建物の2階の部屋に旅装を解いた。街を一歩出ると、もうそこはどこにでもあるタイの田舎そのもの、という風景が広がっていた。
 先ず、街から3キロほどのところにある中国人村を訪ねた。メーサロンと同じく中国国民党残党の村である。村の入り口には中国風の門が建っていた。ここはうって変わって中国の田舎の村そのものだ。林業とニンニクの生産で生計をたてていると、彼らは言っていた。それにしては生活はかなり豊かそうに見える。
 次に、すぐ隣に接しているリス族の村を訪ねた。入口の門の両脇には散弾銃を持った人(タイ人ではない、警察でもない、軍隊でもない)が出入りする車両をチェックしていた。住民もそこでおしゃべりをしていたし、それほどの緊張感も感じられなかった。何のチェックも受けずに村の中に入った。普通のタイの田舎の村のようだ。一軒の家の庭で女性たちが集まっていた。輪の中に入っていった。リス族特有の民族服を作っていた。リス族の女性は実に美しい。彼らはベトナムから30-40年前にここに移り住んだと言っていた(ベトナム?本当だろうか?)。この村もかなり豊かそうだ。
 後でゲストハウスに戻ってから聞いてみた。案の定。ほんの数日前にリス族の村で麻薬の売人が警察に逮捕されたばかりだった。捕まった人、押収された麻薬の写真も掲示してあった。パーイは麻薬の街でもあったのだ。
 この後、街から7キロ程離れたHot Spa まで足を伸ばした。途中、象とすれ違った。エレファントキャンプの象乗りは一般道を使って行われているのだ。源泉から流れ出るお湯が川になって流れている。流れの途中で湯をせき止め、入れるようになっていた。もうお湯はぬるくなっていたし、大して深くは造っていないので、日本人には満足できない。その代わり、街へ引き返す途中にあった Thanpai Spa Camping で温泉に入った。ここは日本の露天風呂と同じ雰囲気だ。湯量も多いし、湯温も適度に暑い。これで水着を着ないで入れたら、日本の温泉そのものだ(50バーツ)。
 夕食をとった。ここでの食事はタイ料理ではなく、欧米料理が幅をきかせている。アメリカ並に量が多い、しかも安い。メニューはすべて英語。従業員のために番号が振ってあった。レストランに座り、欧米料理を食べながら外を眺めていた。街を歩いているのはファランばかり。中で食事をしているのもファランばかり。いったいここは、どこなんだろうか? タイではない。錯覚に陥ってしまう。まるで"ファラン租界"だ。
 パーイにはファランに必要なものがすべて揃っている。街中には、安く小さなゲストハウスがいくつもある。食事は、欧米料理。夜には、チェイソンクラム路にバービアがひしめく。また郊外には、豊かな自然が満ち溢れている。そしてさらに、あえて誤解を恐れずに言えば、麻薬がある。
 パーイは、確かにファランにとってはユートピアなのだ。

(Oct.2003)

Top Page 1 , 2 , 3 , 4 , 5