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ワタナタム・ランナー


   − 古代ランナーの遺産を観る −


 タイの歴史はスコータイ王国より始まり、アユタヤ王国、そして現在のタイ王国ラタナコーシン朝へと続くとされる。しかし、チェンマイ、北タイにもかつて強大な王国があった。マンラーイ王を始祖とするラーンナー王国である。
 タイ族はもともとアルタイ山脈の麓あたりに住んでいたといわれる。漢族の圧迫により徐々に南下し、中国南部雲南に移り住んだという。13世紀中頃、元のフビライ・カーンが雲南に侵攻した。これを契機にタイ族の南下が加速し、13世紀から14世紀にかけて、北は雲南シプソーン・パンナーのチェンルン(現在の景洪)、東は北ラオスのシェントーン(ルアン・プラバーン)、ベトナム北西部のシプソーン・チュタイ(ディエン・ビエン・フー近辺)、西は北ビルマ・シャン高原のチャイントゥン(ケントゥン)、さらに西にインド・アッサム州などなど、実に広い範囲にタイ族の王国を創っていった。このような状況下で、マンラーイ王はチェンラーイ、チェンマイを中心としたラーンナー王国を建国した。
 タイ族の建国の歴史は、中国南部の険しい山々に囲まれた盆地にバーンという首長タオに率いられた血縁集団からなる村をつくり、そこで水稲耕作を行っていた。タイ族のタイとは犂(からすき)を意味しており、「タイ族の祖先は最初に犂を使って土地を耕した人間」という伝承があり、最も早く水稲耕作を始めた民族であるといわれる。(註.これには諸説ある)その後、いくつかのバーンが同盟し、チェンという都に住むチャオ という王をもつ小王国ムアン へと発展していった。当時のタイ族は、異民族の国の中に属してはいたが、同時にその国の中に自分たちのムアンを創っていた。
 13世紀前半より、父方にパヤオのユアン族、母方にシプソーン・パンナーのルー族を血縁とする、ムアン・ヨーノック(後のチェンセーン)のマンラーイ王は周りのムアンを制圧し力をつけ、さらにはシャン高原のチャイントゥンなどのムアンを支配下に収め、雲南シプソーン・パンナーにも影響力を及ぼしていった。そして、先住モーン族のハリプンチャイ王国(現在のラムプーン)を滅ぼし、ウィアン・クムカム(チェンマイ郊外サラピー)を建設し、1296年"新しい都"チェンマイを建設した。これがラーンナー王国である。
 ラーンナー王国は、15世紀初めより国境を超えて他の国々と結びついていた。他民族の圧力に対抗するため、各地の有力なムアンと連盟を結んでいたのもその1つである。それは"ヨーノック"とよばれ、シプソーン・パンナー王国、北ラオスのラーンサーン王国などとの連盟である。この連盟によって、言語、文字、風俗、習慣、宗教などの文化が、これらのムアンで類似のものとなり、北タイ、北西ラオス、北東ビルマ、南西中国へと、ラーンナー文化が伝播していく原因ともなった。
 今日では、チェンマイ、チェンラーイ、チェントゥン(チャイントゥン)、チェントーン(シェントーン)、チェントゥン(景洪)を共通のラーンナー文化圏として、"5チェン"とよんでいる。
チェンマイは1558年から1775年まで200年の長きにわたってビルマ族に支配された。そして1775年タイ王国トンブリ朝に服属し、その後1874年タイ王国ラタナコーシン朝の一州となり、ついに600年余り続いたラーンナー王国の幕が下ろされた。しかし、栄華を極めたラーンナー文化は、美術、建築、言語、文字、習慣など、タイ王国に対しても極めて質の高い独自の様式を持ったすばらしい芸術を今に残している。

ラーンナー文化を観ることのできる博物館は2つある。以下に紹介したい。

チェンマイ市芸術文化センター
旧市街、「3人の王様の銅像」の後ろに、最近チェンマイ市芸術文化センターが開館した。展示されている内容は、ラーンナー王国から現在までの文化、風習、チェンマイ建設時の都市計画の概要などなど盛りだくさんである。数多くの写真、ビデオ、細かく丁寧に作られた模型などでわかりやすく展示されている。さらには館員の女性が丁寧に説明してくれる。しかし、"博物館"と考えると何か物足りない。展示されている"ラーンナーの遺品"が少ないのだ。ここで観るべきものとしては、この建物であろう。この建物は、かつて宮廷のあった場所に、ラタナコーシン朝パーヤップ州の行政政府の建物として1924年に建てられたものだ。美しき古き良きシャム時代を偲ばせる建物である。入館料90バーツ。ちょっと高い気がしないでもないが……。
午前8時半より夕方5時まで、月曜休館。  Tel.053-217793/219833

ウープカム博物館(チェンラーイ)
 ラーンナー文化遺産を収集、展示した始めての博物館、それがチェンラーイのウープカム博物館である。"ウープカム"というのは、王族が使用した金牌のことである。ここにはラーンナー文化圏の各王朝、シプソーン・パンナー、ラーンサーン(シェントーン)、チャイントゥン、パヤオ、チェンラーイ、チェンマイの王族が実際に使用していた貴重な衣装、宝物などの芸術品が所狭しと展示されている。展示品の質、保存状態など素晴らしいというほかない。ウープカム博物館の開設者ジュンラサック・スリヤーチャイ氏は元高校の国語(タイ語)の先生。かつてラーンナー文化は、自分たちタイ人の間では全く省みられていなかった。このまま放っておけばラーンナーの遺産は散逸してしまうだろうという危機意識から、20年程前より自分の足で"5チェン"を歩き、私財を投じて収集、保存してきた。館内ではスリヤーチャイ氏自らが案内、説明をしてくれる。ひとたびウープカム博物館に訪れれば、ラーンナー文化がいかに栄華を誇っていたのか体感し、圧倒される。必見の博物館である。
午前9時より午後9時まで、毎日開館。入館料200バーツ。 Tel.053-713349 

(Jan.2004)


静寂のルアン・プラバーン


小和田佐重(こわださじゅう)

 タイの隣り、ラオス北部の古都ルアン・プラバーンに初めて行ってきた。日本ではラオスについての報道が少ないせいか、ラオスという国がどんなところか具体的に想像するのが難しい。実際、足を踏み入れるまではラオスのイメージといったら、社会主義国、経済の行き詰まりによる貧困、あの辻政信の消えたところ、といった程度のことしか浮かばない。まして一地方都市ルアン・プラバーンのことなどなおさら皆目見当がつかない。
 チェンマイからルアン・プラバーンへ行くには、チェンセーンから50キロ、メコン河の川下の町チェンコンの対岸バーン・フェーサイからボートに乗って行くルートと、直接飛行機で飛ぶルートがあるが、今回は飛行機で行くことにした。

 チェンマイ空港を定刻より20分早く飛び立ったラオス航空のプロペラ機はわずか1時間余りの飛行の後、降下を始めた。濃い緑の山々が折り重なった間を濁流のように流れる2本の川が合流するのが目に入ってきた。2本の川はメコン河とナム・カーン川である。そして、合流地点にわずかに広がった町がルアン・プラバーンだ。寺院の仏塔がいくつも見えるが、大きな建物は全く見当たらない。拍子抜けするほど小さな町だ。小さな町の小さな空港の片隅に着陸した後、これまた小さなターミナル・ビルまで強い日差しの中をとぼとぼ歩いていき、入国審査。あっと言う間もなく、あっけなく入国。市街地にはやはり大きな寺院が立ち並んでいたが、人影はまばらだ。わずか10分で目的の宿に到着した。
 ルアン・プラバーンには、大きく美しい寺院がいくつもある。そのいずれもチェンマイの寺院に似通っている。女性は皆、子供から大人、老人まで裾の長い筒状のスカート“シン”をはき、上は白色の綿のブラウスを着ている。こざっぱりしていて、優雅に見える。チェンマイでも老人が同じような格好をしているのをよく見かける。会話をするときも実に静かにし、強い日差しを避けるため傘(雨傘なのが残念!)を差しながら優雅に自転車をこいで行く。こんな光景を見ていると、時がこの町だけゆったりと進んでいるように感じる。きっとチェンマイも数10年前には、こんな様子ではなかっただろうか。人々は皆、色黒ではあるが、丸顔で、小柄な体格をしている。チェンマイにもよくいる顔つきをしている。話す言葉もチェンマイとよく似ている。かつては同じだったのではあるまいか。ただ話し方はゆっくり、ゆったりである。チェンマイと同じ絹織物、綿織物を織り、もち米を主食としている。かつては同じ文化圏だったのだろう。その理由としては、かつてルアン・プラバーンの王子がラーンナー王国の王としてよばれ、その後数年間は両国の王位を兼ねていたことによっているようだ(1546−1551)。
 ルアン・プラバーンの歴史を少し紐解いてみよう。
 ラーオ族は、タイ族の一派である。初期の歴史ははっきりしないが、ルアン・プラバーンを興した人々は、中国唐王朝による雲南、南詔王国併合によって南下、移動してインドシナ半島へ移ってきたタイ族の一派が、メコン河上流のこの地にムアン・サワーという国を創ったのが始まりである。そして南詔王国のクン・プローム王(皮羅閣王)の7人の王子のうちの一人、クン・ローがムアン・サワーを占領し、“黄金の都”シェントーン(タイ語読みではチェントーン)と名付けた。この時期以降多くのラーオ族が合流して来た。近隣のタイ族のスコータイ王国(1238年建国)、ラーンナー王国(1259年建国)に遅れて1353年、シェントーンを中心にラーオ族を統合して“百万頭の象”ラーンサーン王国を建国した。これが今日のラオス最初の統一国家である。上述のように、ルアン・プラバーンとチェンマイとでは、文化・習慣などが似通っている。一見しただけでも上座部仏教(小乗仏教)信仰、言葉、絹や綿織物の服装、食物、風俗習慣……。ほとんど同じといってもいいくらいだ。ルアン・プラバーンというのは、ラーンサーン王国の都をシェントーンからヴィエンチャン(紫檀の木の町)に遷都したとき、寺院に安置されているプラバーン金仏像にちなんで改名されたものだ。
 翌日、街を歩いた。まず、メイン・ストリートのシーサワンウォン通り、サッカリン通りから。ルアン・プラバーンのほとんどの観光スポットがこの周りにある。かつての王宮の建物を使った王宮博物館。一国の王宮にしては、あまりにも小さく質素。拍子抜けしてしまった。有名な寺院のワット・シェントーンとワット・マイ。16世紀に建立されたワット・シェントーンの境内は広い。素朴で、落ち着いた感じがし、美しい。本堂の側壁には美しいガラスのモザイク画が、裏面には有名な“黄金の樹” マイ・トーンのモザイク画が描かれている。次にワット・マイ。正式にはワット・マイ・スワンナプーム・アハーン、美しい黄金の地の寺院。こじんまりとした寺院ではあるが、本堂の外壁・内部共に黄金で装飾されている。美しい。本堂の屋根。これもまた美しい。サッカリン通りの両側には西欧風の建築物ばかりが立ち並んでいる。洒落たレストランやベーカリーがこれらの建物を利用して開かれている。ここではあまりにも美味しいフランス・パンや、信じられないほど甘ったるくて不味いカフェ・ラーオ(ラオス・コーヒー)が安価な料金で味わえる。これらの建物にはいずれも1933、1934などと建てられた年号が記されている。ラオスは19世紀末より、第2次大戦時の日本軍による占領を挟んで、1953年までフランスの植民地であったという暗い歴史を持っているのだ。その遺産が、フランス・パンであり、西欧風建築物であり、植民地の町並みとしての世界遺産登録であるのだ。

 ルアン・プラバーンの人々は、淑やかで、物静かで、交通規則を遵守し、派手な振る舞いもなく、自然体で生活している。これが始めてルアン・プラバーンを訪問し、受けた印象である。またいつか訪れたい。

ルアン・プラバーンの町を一日中歩いていても、警察国家と違って、警察官をまるで見かけない。ここが社会主義国であるのがほとんど実感されない。(唯一体感したのが、後で行ったヴィエンチャンで国立博物館を訪れたときだけだ。博物館の展示内容はといったら、ほとんど革命の写真だけだった)
 
あるとき前方からカーキ色の制服に身を包んだ若い女性が歩いてきた。
「兵隊さんですか?」
「いいえ、警察官です」
「写真を撮らせてください」
「イヤーッ、はずかしーい」
といって、逃げてしまった。

(Feb.2004)


ナーンは遠かった


小和田佐重(こわださじゅう)

 ナーンは、しばしば辺境の地と表現される。しかし、チェンマイの東方、直線距離で180キロにあり、北方120キロ先にはメコン河を境としてラオスに接している。確かに、かつて古代においては辺境の地であったのかもしれないが、しかしナーンは北部の険しい山岳国境地帯にあるわけではない。よほどの辺鄙なところでなければ、現在では道路整備が進み、どんな山道でも拡張され舗装されている。主要都市周辺では高速道路さえ整備されている。チェンマイより僅か180キロのナーンなど辺境である筈はない。

 かつてナーンには、コン・ムアン(町の人)、すなわちタイ・ユアン族による国、ナーン王国が栄えていた。ナーン王国の歴史は13世紀にまで遡る。始めは、1282年、現在のナーン市の北方70キロにムアン・プアが、そして1368年、現在の地にムアン・ナーンが創られた。しかしナーンは、近隣のスコータイ王国、ラーンナー王国チェンマイからラーンサーン王国ルアン・プラバーンへの交通の要衝という特異な位置にあったため、小国ナーン王国は14世紀にはスコータイ王国に、14世紀末にはラーンナー王国に領有され属国にされている。そのためナーンにはこれら両王国の文化の影響が色濃く残っている。ワット・チャーンカームはスコータイとラーンナーの混合様式、ワット・プーミンはラーンナー様式の代表的な寺院である。特にワット・プーミン本堂内部の壁画は、過去仏(過去の世界に出現した仏陀)や仏伝(仏陀の生涯)の他に、他の寺院にはみられないような、かつてのラーンナーの人々の生活の様子がラーンナー絵画様式によって実に生き生きと描かれている。
 ナーンの北方40キロの郊外、ターワンパー周辺には、タイ・ルー族、タイ・プアン族、タイ・クーン族のタイ系諸族の村が点在している。16世紀から18世紀までの約250年間、ナーンが服属していたラーンナー王国はビルマ族のペグー王国に占領されていた。18世紀末にシャム王国によって奪回はされたものの、長い戦乱によって、ほとんどの都市住民は北方に逃れ、都市はほとんど住む人のない廃墟と化してしまった。そこでラーンナー再興のため、かつてのラーンナー王国領地よりこれらのタイ系諸族の人々を移住させたのだ。タイ・ルー族は雲南シプソンパンナーより、タイ・プアン族(彼ら自身はラーオ・プアンといっていた)はラオス・シェンクァーンより、タイ・クーン族は北ビルマ・シャン州チャイントゥンより。とりわけタイ・ルー族の移住者は6,000人にも及んだため、絹や綿の機織、仏教絵画や寺院建築などの多くのタイ・ルー文化が伝播してきた。タイ・ルー族の住む村、バーン・ノーンブアには、タイ・ルー様式の寺院、ワット・ノーンブアがある。本堂、本堂内部の壁画は、普段見慣れたラタナコーシン様式のようなきらびやかなものと違って、落ち着いた素朴な美しさに満ちている。また近年、ナーンでは伝統文化の見直しによる地域開発計画の一環として、シプソンパンナーのタイ・ルー族との国境を超えた交流によってタイ・ルー伝統模様の絹・綿の機織の再興も行われ始めている。現在は未だ機織のみで、絹糸はイサーンから、綿糸はチェンマイから取り寄せている。
 ナーン近郊にはモン族、ヤオ族など山岳民族が、銀細工など手工芸品の製造などを営んで暮らしている。そして、あのムラブリ族(ピートンルアン)も森の中で狩猟をして暮らしている。
 ナーンの町の様相を見ると、タイ族の、雲南シプソンパンナー以来の町造り、国造りの様子が実感できる。ランパーン、プレーの側から長い山道を下ってナーンに入って行くと、突然に視野が開け、平坦な盆地に至る。濃い緑の山々に囲まれた肥沃な土壌の平地に、淡い緑の水田が遥かに広がっている。そこには山を背にして村バーンがある。水稲耕作のほか、かつては、裏山から肥料となる落ち葉や、薪や、山菜、たけのこなどを取り生活していた。そして盆地中央には豊かな水をたたえたナーン川がゆったりと流れ、その辺にかつて王が住んだ都チェン・ナーン(中国語で「南の都」という)が静かに、横たわっている。山々からの湧き水、ナーン川の豊かな流れ、澄んだ空気、…。これらの豊かな自然に包まれてナーンの人々は暮らしてきたのだ。
 しかしナーンは、豊かな悠久の歴史の他に、別の側面の歴史も併せ持っている。ナーンの町の北方90キロ、プア、チェンクラーンの先、トゥンチャーンの丘の上に記念碑が建っている。1996年に建てられた「トゥンチャーン犠牲者の碑」である。中華人民共和国建国以来、共産主義勢力はその勢力圏をベトナム、ラオス、マレーシアなどインドシナ全土に拡大してきた。タイもその例外ではなく、1960年代より、ベトナム、ラオスからの共産ゲリラの侵入が激化してきた。チェンラーイからナーンのラオス国境地帯は共産ゲリラの暴動の拠点となった。そして1969年の共産ゲリラによるタイ要人人質虐殺事件をきっかけとして、タイ政府は、兵力を投入し共産ゲリラに対する戦闘を開始した。タイ国軍は、メーサロンおよびファーンの中国(台湾)国民党軍やワ族軍の協力を仰ぎ、共産ゲリラと激しい戦闘を繰り返し、ようやく1981年、共産ゲリラを全滅させ、平定した。幾度も繰り返された戦闘で多くの犠牲者を出した。記念碑には共産ゲリラに対する兵士、一般庶民、警察官、役人の犠牲への祈念と記されている。しかし、国民党軍、ワ族軍の犠牲者についての記述はない。隣には博物館が建てられている。今ではほとんど訪れる人もないのであろう、入口には鍵がかけられていた。悪いとは思ったが、熟睡している管理人の兵士に起きてもらい、鍵を開けてもらった(平日午後だった)。館内には共産ゲリラが使用した武器などのほか(毛沢東語録もあった)、多くの戦闘時の写真が展示してあり、戦闘の激しさ、悲惨さが実感された。

 ナーンの清々しい空気、豊かな自然、整然とした町の中にいると、時の歩みが止まり、なんだか古代に取り残されていくような錯覚に陥る。チェンマイ、ランプーン、ランパーン、プレーと340キロ、ランパーンの手前からは長い長い山道の連続、本当にナーンは遠かった。やっぱりナーンは辺境なのだろうか。

ナーン・コーヒー
朝食に後、カフェ・ボーラーンを注文した。カフェ・ボーラーンというのは、コーヒーにコンデンス・ミルクをたっぷりと入れたもの、というより、コンデンス・ミルクの中にコーヒーを流し込んだものといった方がよい。全体をよくかき回して飲むと、強烈に甘くなる。チェンマイなどではカフェ・イェン(アイス・コーヒー)がほとんどだが、ナーンではカフェ・ローン(ホット・コーヒー)としてもよく飲まれる。ところが、これを注文すると、同時にお茶(ウーロン茶)も出てくる。コーヒーが甘いので、口直しのために飲むのだろう。この習慣からなのか、コーヒー・ショップで普通のコーヒー、カフェ・ソットを注文しても、やっぱりお茶(このときはジャスミン茶)が付いてきた。今度はきっと、苦い口直しなのだろう。

(Mar.2004)


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