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景洪 −タイ人の祖先の地?−

 
小和田佐重(こわださじゅう)

 チェンマイ空港より飛び立ったバンコク・エアウェイのプロペラ機は中国雲南省西双版納 族自治州の州都、景洪にある西双版納国際空港に着陸した。ジェット機で1時間半ぐらいのフライトだろうと思っていた私は、プロペラ機で僅か1時間10分、あまりの近さに驚いた。と同時に、この近さならば、この辺りがラーンナーと共通の文化圏であったといわれているのも納得がいった。気候も、チェンマイより幾分涼しい気がするが、それほど大きな違いはないだろう。
 簡単な入国審査を終え、到着ロビーに出た。両替をしようと、銀行を探したが、見当たらない。空港職員に尋ねた。しかし、驚いたことには英語が全く通じない。仕方なく、筆談に切り替えた。高校時代の漢文がこんなことで役に立つとは思いもよらなかった。が、しかし早速「没有(メイヨー)」ときた。西双版納国際空港は、国際空港にもかかわらず、外貨の両替のための銀行がないのだ。到着早々、これは困ったことになった。一文無しである。
 そこで、ターミナルビルを出て、なかなか来ないタクシーを捉まえ、これまた筆談で、銀行へ行ってもらった。幸い景洪は小さい町だった。10分で銀行に到着した。これで一安心。
 景洪市内に入ってきたときの第一印象は、「南国にやって来たな」である。ここより南に位置するチェンマイに住んでいるというのに、こんな印象をもった。
 中国でのタイ族の総人口は110万人余りと推計されている。その内の3分の2が西双版納 族自治州と、北隣の徳宏?族景頗族自治州に居住している。西双版納(シーサンパンナ)というのは、タイ語の音を中国語に当てはめたもので、タイ語ではシプソーンパンナーという。この名称の由来は比較的新しく、16世紀、明代に宣慰司(行政官の長)が、この地区を12の行政地区に分割したことによっているという。シプソーンは「12」、パンナーは「1000の田」である。当時は、1パンナー(約670平方キロメートル)を徴税の基礎単位としていたのだ。ただ、これには諸説ある。タイ族の村落共同体(バーン)では、田はバーンの所有であり、村民全員が田を分けて耕作し、条件の変化に応じて田の割り替えを行ったという。このまとめ役がタオ(バーンの頭目)でありチャオ(ムアンの領主、王)であった。
 西双版納は、中国長江南部を起源としていたらしいタイ族が徐々に南下し、主として北ラオスから、他のタイ族と分派して来て展開、定住したところだ。この地の河谷盆地で、多くの村落バーン(中国語で「曼(マン)」)を創り、これらを統合し、小王国ムアン(中国語で「モン」)を興した。西双版納には無数の曼やモンの付いた地名が点在する。景洪はその中心で、瀾滄江(メコン河)の河谷盆地にある。景洪(ジンホン)はタイ語でチェンルンという。"黎明の都"という意味である。この地にタイ・ルー族が多く住み、「ルー国」を創っていた。10世紀末頃にクメールの脅威に対抗するため西双版納からタイ北部、ラオス北部、ベトナム北部のタイ族の小王国が連合した。この国家連合を"ヨーノック"(龍の子孫の国)と呼んだ。そして、1180年に「景隴金殿国」が建国され、1951年まで、38代、実に800年近くにわたって続いた。景隴金殿国は、後にヨーノックの盟主として、広大な地域の覇権を握って栄えていた。そして、この連合によって、文化が互いに伝播し合い、類似したものとなったようだ。類似の文化というのは、上座部仏教信仰、言葉、タム文字の使用、…である。上座部仏教は、14世紀後半から15世紀前半にかけてラーンナーからチェントゥン(北ビルマ)を経由して伝わった。現在でも殆んどのタイ諸族が信仰している。タム文字(トゥア・タム)はタイ・ルー文字といわれ仏教経典や暦法、医薬書、叙事長詩などの記述に使われ、現在では西双版納で新聞も発行されている。ラーンナーや北ビルマでも使われ、タイではラーンナー文字とも言われている。しかし、言葉は相当違うようだ。タイ・ルー語とカム・ムアン(ラーンナー語、ユアン語)は類似文化圏とは思えない程、余りにも異なってしまっている。カム・ムアンとルアン・プラバーンのラオス語の方がずっと近いようだ。

 景洪市街地は、1980年代以降、漢族の大量移住によって、急速な都市化が進んでいる。現在では、漢文化の影響が強く出て、「黎明の都」の面影は殆んど無くなってしまった。微かに残っているのは、景洪市街外れの曼聴(マン・ティン)地区のみである。ここにはタイ・ルー族の家並みが僅かに残り、タイ・ルー様式寺院、曼聴佛牙寺(ワット・マンティン)が残っている。大きな寺院ではないが、内部は歴史を感じさせる。一訪に値する。

 タイ人の多くは、自分たちの祖先は北方からやって来たと感じている。西双版納を、自分たちの祖先の地であるように思っているようだ。しかし、どうやらこれはかつての欧米の学者の主張に拠っているようである。これは現在では、中国や日本の学者によって否定されている。しかし、ラーンナー王国の創始者マンラーイ王は、父親がグンヤーン(チェンセーン周辺)の24代王ラーオ・メン(ラーオ族)ではあるが、母親が景洪の景隴金殿国の王ターオ・ルン・ケンチャイの王女ナーン・ウア・チョムムアン(タイ・ルー族)であることを考えれば、西双版納はラーンナーの祖先の一つの地であるともいえる。

タイ族のお茶
 雲南の麗江、大理などで食事をするときには、必ずお茶(緑茶)が出てくる。ところが、西双版納では、注文しない限りお茶が出てこない。どこでも水が出てくる。普?茶、烏龍茶、緑茶、紅茶、…。雲南はどこでもお茶の生産地だというのに。どうやら西双版納の?族も、タイ人と同じように、お茶を飲む習慣が殆んどないようだ。しかし例外として、唯一飲むお茶がある。「糯米香茶」(ヌオミーホンツァ)である。景洪郊外の橄攬?(ガンランパ)のタイ・ルー族の家で飲むことができた。独特な甘い香りがする。味はどこか日本の玄米茶に似ているような風味がした。後日、西双版納では唯一訪れた?族以外の村、哈尼族村(ハニ族、アカ族の支系)の家の軒下に、糯米(もちごめ)の小さな稲があった。葉を取って、緑茶に入れたら、糯米香茶が出来上がった。骨折の治療に薬効があるという。

(May.2004)


タイ人世界の原風景を垣間見る  - 西双版納のタイ族探訪の旅―


小和田佐重(こわださじゅう)

 西双版納の交通事情は良くない。郊外の町へのバスは頻繁に出てはいるが、道路が未だ整備途上である。一応道路は舗装されてはいるが、デコボコ。道幅も狭く、見通しの悪い急カーブが多いので、出合い頭の事故が耐えない。安全に目的地まで到着するのには時間がかかる。そこで効率よく回るために、車と運転手、ガイドを使うのが良い。景洪市内の旅行社をいくつか回った。しかし、英語ガイドの手配ができない。観光のオフシーズンのためなのか、英語ガイドを抱えていないのだ。言葉の分からないところでの情報収集は、外国人相手の場所へ行くにかぎる。夕方、外国人向けカフェへ行った。ここで偶然居合わせたガイドと知り合った。哈尼族(ハニ族、アカ族の支系)の青年であった。英語もできるし、タイ語もできる。そこで早速、翌々日より2日間ガイドをしてもらうことにした。ところが、翌日、欧米人の予約が外国から入ってしまった。代わりは、そこのマネージャー(社長)、もちろん英語はできない。どうやら哈尼族ガイドと英語、タイ語、そして筆談で打ち合わせをしたため、筆談で大丈夫との判断をされてしまったようだ。こちらは筆談では充分ではないのだが……。

大らかな水タイ族
 1日目、水タイ族の村を訪れる。西双版納?族自治州の人口のうち、タイ族が約35%を占める。(中国では、雲南のタイ族をタイ族、タイ国のタイ族を泰族と区別して書く)そのタイ族の殆んどはタイ・ルー族である。河谷盆地の低地に居住し、水稲耕作を主な生業としている。そのため中国語の俗称では水タイ族と呼ばれる。
 朝7時40分、この時間でも真っ暗。8時を過ぎた頃、薄明るくなってはきたが、辺りは一面、霧。結構冷える。まず、景洪の南60キロにある曼飛龍仏塔を訪れる。一路進路を南にとった、と思ったら、どうしたことか“高級中学校”に寄ってしまった。しばらくすると、運転手の息子(15歳)を授業中の教室から連れ出してきた。どうやら彼らは気を使って、高校で英語を勉強している子供をガイド代わりに帯同したようだ。肝心の英語は使い物にならなかったので、結局は、この子とも筆談になってしまった。しかし、「雲南十八怪」を説明したり(第五怪までしか覚えていなかったが)、一生懸命に“ガイド役”を務めてくれた。そして、再出発。曼海、曼汐、…、途中にある村はすべて水?族の村である。一面の水田。ちょうど田植えの時期である。筒状のロングスカートを腰までたくし上げた水?族の女性が横一列に並び、等間隔に苗を植えている。この辺りでは3期作とのことだ。水?族は糯米(もち米)、紫糯米(日本の赤飯のルーツらしい)を主食としているが、現在では軟米(うるち米)の耕作の方が多いとのことだ。
 11時半、ようやく曼飛龍(マンフェイロン)に着いた。この辺りにはかつて、モン龍(モンロン)というムアンがあった。この村の裏山の上に白銀色のパゴダ、曼飛龍仏塔が建っている。

1204年に創建されたこの塔は、今日では有名になり、西双版納のシンボルのような存在になっている。実際に目にしてみると、それほど大きくはない。高さ16メートル余りの主塔の周りに8つの小塔が取り囲んでいる。塔の形状から“塔糯”“笋塔”、色から“白塔”と呼ばれている。創建当初は黒灰色だったが、繰り返し塗り返されたため白銀色になったという。水?族の女性がいたので、タイ語で話しかけてみた。しかし全く通じない。そこで筆談で尋ねてみると、タイ語のサワディー(今日は)はムンリー、コックンクラップ(ありがとう)はインディー、それではインディティダーイルーチャック(はじめまして)はコムチャー、…という具合に全く違う。タイ語とカム・ムアン(ラーンナー語、ユアン語)、ラーオ語との違いよりずっと大きい。確かに、文字はタム文字(ラーンナー文字)を使ってはいるが、言葉のほうはすっかり異なってしまったようだ。水?族の女性は、老人も比較的若い人も筒状のロングスカート、裙子(タイ・ルー語でイーフー)をはいている。これはラーンナーやラオスではシンと呼んでいるものと同じものだ。西双版納では、綿や絹の機織がもうほとんど廃れてしまったのか、生地は普通のありきたりのものである。モン海(モンハイ)の市場ではもう少しきれいなものを見かけたが、どうやらタイやラオスのもののようだ。期待はずれだった。水タイ族の家屋は、タイの田舎でよく見かけるような、木造、高床式である。

誇り高い漢タイ族
 雲南は標高が高く、険しい山々が起伏し、その間を河川が流れる複雑な地形をしている。そのため居住地が山々に隔てられて分散、閉鎖的にあったため、それぞれの民族に支系が多くなった。西双版納の?族の支系も、水?族(タイ・ルー族)のほか、漢タイ族(タイ・ナ族)、花腰タイ族、回タイ族などがある。
2日目。景洪の北方35キロの?養(モンヤン)へ行く。ここの村、曼金髪(マンチンフア)には漢タイ族が住んでいる。漢タイ族は、かつては旱タイ族と書いたように、比較的山のほうに住んでいるが、水稲耕作を営んでいることには変わりない。漢タイ族と書くようになったのは、タイ族の間で一番早く漢文化を受け入れたことによるそうだ。そのためかどうか、(男性の)自尊心がかなり強いようだ。夕方日が暮れる頃、漢タイ族の女性は野良仕事から帰って来たが、その頃男たちはもう酒盛りで出来上がっていた。家屋は土壁、土間の平屋。隣家との塀はかなり高く、水タイ族の村に比べて閉鎖的である。女性の服装は、水?族と変わらない。ただ若い女性はもう裙子は着ていない。宗教は水?族とは異なり、上座部仏教は信仰していない。神位(精霊信仰、アミニズム)である。

山岳民族のような花腰タイ族
 次に、花腰タイ族の村を訪れた。漢タイ族の村の山の斜面のすぐ上側に接している。このことからも分かるように、花腰タイ族は漢タイ族の支系である。家屋も神位信仰も全く同じである。しかし、驚いたのは女性の服装である。もう老人しか着てはいないが、まるでアカ族である。タイ族が山岳民族のような服装をするとは、本当に驚いた。

不思議な回タイ族
 景洪の西50キロにあるモン海(モンハイ)。ここへの途中に曼派(マンパイ)という村がある。ここに不思議なタイ族が居住していた。西双版納へ行くまでは知らなかったのだが、訪れてみて頭が混乱してしまった。この村には、回タイ族というタイ族が居住している。女性の服装は小さな子供から老人まで裙子を穿いているが、頭をスカーフで覆っている。彼らは回教徒なのだ。村には回教寺院もある。回教(イスラム教)を信仰する?族がいても別に不思議はない(キリスト教を信仰するタイ族も少数だかいるそうだ)。しかし、驚いたのはその村の仏教寺院を訪れたときだ。寺院内にヴェールを被った女性が“いる”のだ。ここは一体、仏教寺院なのか? 僧侶に尋ねてみた。確かに仏教寺院である。小和尚の案内で、塔のある丘まで行った。ここでさらに頭が混乱してきた。この塔の形状である。明らかに回教の影響が見える。しかし塔の前には仏像が置かれている。仏塔なのである。案内してくれたカーキ色の袈裟を着た小和尚の頭に目をやると、回教徒が被るような帽子を被っている。ますます変だ!
運転手との筆談、帰タイ後、日本の研究者に問い合わせて分かったことだが、その謎はこういうことらしい。清朝末1867年の回民起義の時、清軍に敗れてこの一帯に逃れてきた回教を信仰する回族は、水タイ族の村に婿入りした。その子孫が回タイ族と呼ばれるようになった。確かに良く見ると、顔つき、目つきがどことなく中東風である。子供を見ると良く分かる。仏教徒と回教徒との婚姻によって、イスラム寺院に変化はなかったが、仏教寺院は回教の影響を受け回タイ教仏と呼ばれるような様式になったとのことだ。一応はこれで回教の影響を受けた仏教寺院の謎は解けた。しかし、さらに疑問が沸く。彼らの信仰するのは、仏教なのか、回教なのか? 同じ敷地内に、水?族家屋とイスラム風家屋が並んで建っている。どうやら両方信仰している人もいるようだ! しかしこれはそう難しく考える必要はないのかもしれない。我々日本人の多くも、仏教と同時に神道も信仰している訳だから。
しかし、それにしても、仏教と回教を同時に信仰するとは。なんとも不思議な回タイ族である。

(June,July 2004)


天国へ続く道はどこにある


小和田佐重(こわださじゅう)…文のみ

 天国へ続く道を望めるところがあるという。プーチーファー、「天への道を指し示す山」という奇妙な名の山である。プーチーファーに登れば天国への道が望めるというのだ。プーチーファーはチェンラーイ県の東の外れ、ラオスとの国境の山岳地帯にある。地図で見る限りは、ほとんど辺境である。また、大変な道程になりそうである。

 チェンマイから国道118号線をチェンラーイへ向かって80キロ、ウィアン・パーパオで右折し、120号線を東に向かってまた80キロ走るとパヤオに出る。さらに1021号線をひたすら90キロ走るとチェンカムに至る。チェンカムからは1093号線を山に登っていく。延々と続く山道は狭いが、しかしよく舗装されている。それほど急な勾配もない。タイの道はどこまでも、実によく整備されている。快適なドライブだった。登り始めてから70キロ、ようやくプーチーファーの集落に到達した。ここはタイの人々の間ではよく知られた観光地のようで、小さなロッジ形式のゲストハウスが山の斜面に数多く建ち並んでいる。「辺境」とは聞いていたが、チェンマイから350キロ、パヤオから160キロ、そしてチェンラーイからも160キロ。道路はすべて舗装されていた。とても「辺境」とは呼べない。
さて、頂上はこの上からさらに徒歩で30分。両側が断崖の狭い登山道を、滴り落ちる汗を拭き拭き、恐る恐る登っていくと、やっとのことで目指すプーチーファーの頂上に到達する。すると、眼下に遥かに雲海が広がっているのが目に飛び込んでくる。壮大な風景である。しばらく休んでいると、空は青から黄色、赤へと徐々に変化していった。そして日がかげってきた。日没である。
ロッジに一泊することにした。山の上の夜は急激に訪れてくる。外灯もない。あたりは暗闇と化し、静寂に包まれてきた。あるのは冷たい冷気のみである。昨日までの都会の喧騒が嘘のようだ。心が洗われる気がする。
翌朝、もう一度頂上に登った。東の空が白んできた。太陽が昇ってくるにつれ空は赤から黄色、青にと徐々に変化してきた。まるで自分が天に昇っていくような不思議な気分になってきた。どうやら、これが天国への道のようだ。
下の方に目をやると、雲の合間から目も眩むような深い谷間、険しい谷がいくつも目に入ってきた。ここは断崖絶壁、垂直に切り立った崖の上、海抜1721メートルである。この断崖の下がタイ-ラオスの国境になっている。一歩間違えれば、断崖の下へ真っ逆さま、ラオスに落ちてしまう。

日が昇った後しばらくして、山を降りることにした。1093号線をこのまま山の尾根伝いに走り、ドーイ・パータンからチェンコーン方面へ下りるルートを選んだ。しかし、この選択は失敗だった。登りは快適だった道も、今度は痛みがひどい。表面の舗装はいたるところではげ、デコボコ。さらに、中国国民党残党村のあるドーイ・パータンを過ぎ、下り坂になると、舗装はおろか、ほとんど道とは言えないほどひどい道路となってしまった。悪戦苦闘の末、ようやくのこと山から下りて来た。プーチーファーには、天国への道はあったが、地獄への道もまたあった。

(Sep,2004)


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