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たまにはギンジェーで身体を浄化しようか


小和田佐重(こわださじゅう)

 今月10月14日から22日まで、「テーサガーン・ギンジェー」という祭りが、タイ各地で行われる。「ギン」とはタイ語で食べる、「ジェー」とは精進料理を意味している。「テーサガーン・ギンジェー」というのは、毎年10月頃行われる華人(中国系タイ人)の精進料理祭りの期間のことである。この時期になると、黄色地に赤文字で「齋」と書かれたのぼりがあちらこちらで掲げられるようになる。

チェンマイの街を歩いていると、普段でも、漢字で「齋」と書かれた看板が目に付く。齋(??、ジェー)というのは、菜食すなわち精進料理のこと。看板は菜食レストランを示しているものだ。菜食は肉類を一切使わず、野菜から作られた料理のことだ。チェンマイで、これだけ多くの菜食レストランがあるということは、菜食主義者、あるいはそうでなくともしばしば菜食をする人が多くいるということだろう。これら菜食をよくする人たちの多くは、中国人や中国人を祖先にもつ華人だという。
菜食主義は、どうやらインドのバラモン教、ヒンドゥー教あたりからでてきたもののようで、後から仏教に取り入れられたようである。中国へは仏教の伝来とともに、伝わったもののようである。しかし、タイへは仏教の伝来によってではなく、華僑によって伝えられた。タイ人の多くは仏教徒ではあるが、その仏教は中国、日本などに伝わった大乗仏教ではなく、上座部仏教である。大乗仏教には、「果報」という観念があり、五戒の第一は「不殺生戒」(殺生をしない)というものだ。これから仏教徒の間で菜食の習慣が始まったのである。これに対して上座部仏教では、自らが殺生に関与していない肉は食べてもかまわない。したがって、もともとタイ人の間では菜食が根付くことはなかったわけである。ここに中国から華僑が多く移り住み、大乗仏教の教えである菜食が入ってきた。したがってタイで菜食をする人は、概ね華僑の流れをくむ華人に限られるようなのである。華人はまた観音信仰が強く、生き物に対する慈愛が強調される。この観音信仰により華人の間には、毎年太陰暦の9月1日から9昼夜、菜食をするという習慣がおこったのだ。これをタイ語で「テーサガーン・ギンジェー」というのだ。今年は10月14日から22日がその期間に当たる。この間には、卵を含む動物性食品だけでなく、パクチー(香菜)やニンニクなど香りの強い野菜も一切食べず、油や調味料などすべて植物性のものを使用し、野菜と小麦粉など粉を使った料理を食べる。飲酒もダメだし、Hもダメだ。また中国寺院では、信者が集まり、祭りが行われる。(期間中は菜食をしていない人は寺院内に入ることはできないらしい)菜食によって、殺生をしない、仏陀に尊敬を示す、ということにより、身体や心が浄化され、よい健康や人生が得られるのだという。

 さて、ここまで「テーサガーン・ギンジェー」について調べてきたら、思わぬところにつながってきた。プーケットで行われる「奇祭」である。身体のいたるところに針やら鉄パイプやらを刺す血みどろの祭りである。こういう祭りがあることは知ってはいたが、これが菜食に結びついているとは考えもしなかった。

 「テーサガーン・ギンジェー」は、タイ南部、プーケットで1825年に始まった。当時プーケットは森林が多く、風土病、熱病が絶えないような土地だった。あるとき錫採取場の労働者の間に原因不明の疫病が蔓延した。そこへ、たまたま中国から京劇団が公演に訪れたところ、団員も次々と病気にかかり倒れてしまった。そこで劇団員が菜食を誓って天のご加護を求めたところ、たちまち病気が治ってしまった。これを知った人々は、毎年9月1日から9日間菜食祭りを行うということになったという。
 プーケットでは、仏像の行列のほか、功徳が自己犠牲を伴うまでに極端化され、トランス状態になった人(お告げによって選ばれた神が宿った人)による油かけ、刀の階段登り、身体のいたるところにいろいろなものを突き刺す儀式などを廟に奉納する血みどろの奇祭にまでなっている。

 菜食をする人々の理由はまちまちである。信仰のためという人もいれば、神仏へのお礼のためという人もいるし、健康のため、あるいは環境保護や人道主義のためという人さえいる。タイの(中国)菜食料理は、日本の精進料理とは違って、胃腸の負担を軽くして心も清くしようというものだ。単なる粗食とは違って、味も内容も優れたものになっている。野菜の素材を活かすというものではなく、本物の肉料理のような外見と食感をしていて、美味しく作られている。この期間に1年に一度くらい、いろいろな食物を食べてきた身体を休め、不浄なものを排出し、身体を浄化してもよいのではないだろうか。
(参考資料 森枝卓士著「アジア菜食紀行」講談社)

(Oct.2004)


チェントゥン  - 翻弄され続けた王国 -


小和田佐重(こわださじゅう)

北ビルマ、シャン州のチェントゥンに、近年までタイ族の王国があった。チェントゥン、ビルマ語でチャイントン、英語でKengtung)へは、ビルマの首都ラングーン(ヤンゴン)より飛行機を何度か乗り換えて行くルートもあるが、タイからは、タイ‐ビルマ国境の町メーサイよりターチレクに入り、そこから陸路で行くルートが一般的とされている。しかし、乏しい事前情報では、陸路でのチェントン入りが許可されていないだとか、相当な悪路で行けるとしても8~10時間はかるとかいうものばかりで、はたしてチェントゥンにたどり着けるものか半信半疑でチェンマイを出発した。

 アーケード(チェンマイ・バスステーション)よりバスで4時間、メーサイへ行き、ここでタイを出国。ビルマ入国は意外なほど簡単で、Myanmar Travels & Toursで全てを代行してくれた。今では強制両替もなくなり、$10の入国料で15日間の滞在を許可された。ターチレクからは乗り合いタクシーを利用した。チェントゥンまでの道程はいくつもの山々の間をぬって進むため、急カーブの連続ではあるが、それほどの起伏もなく、思いのほか快適で、4時間余りで到着した。快適とはいっても、ビルマの車のほとんどは日本の中古車である。性能はいいが、右ハンドルである。ところが、かつてはイギリスの植民地であったにもかかわらず、車は右側通行なのである。カーブでは視界が悪く、運転しづらい。行きにはバイクと側面衝突しそうになったり、帰りには幼児をあわや跳ね飛ばすところだった。路面状態は比較的良くても、危険性は高い。
 チェントゥンには夕方6時前に到着した。タラート・ミューマサイ(市場)の近くに宿を取り、早速夕食がてら街の散策に出かけた。6時半、日が暮れた。辺り一面真っ暗闇。家々にはすべて配電線もきているし、道路には外灯もある。しかしどこも点灯されていない。どうやら電気がきていないようだ。ホテルやレストランでは自家発電をしているが、一般家庭ではろうそくで灯りをとっているようだ。シャン州の電力事情は相当に悪いようだ。少なくとも私が滞在している間は一度も電気はこなかった。
 翌日、チェントゥン市街(城郭内)を歩いた。チェントゥンはノーン・トゥン湖の東岸、丘の上のホーカム(宮廷)を中心としてその東側に市街地が広がっている。ホーカムは1991年ビルマ国軍によって破壊され、現在はそこに国営のチャイントン・ホテルが建っている。いくつものタイ・ヤイ様式、タイ・クーン様式の寺院のパゴダが光り輝いている。整然とした街並み、レンガ造りの道路、下水道はイギリス統治時代に整備されたのだろうが、今ではそれからの発展もなく土煙に煙っているばかりだ。王朝時代、チェントゥンは周囲を城壁で囲まれ、12の城門をもつ大きな城郭都市であった。今では僅かに残った城壁(土壁)の一部とパーレン門のみが、かつての城郭都市の面影を残しているに過ぎない。しかし、城郭はチェンマイの10倍の広さはあったであろうか。これほどの大きな都をもつ国を維持していた王は、相当な権力を保持していたであろうことは、容易に想像がつく。

 タイ族は、シャン州には中国雲南から6,7世紀頃より移動してきたようだ。12世紀に入って、雲南、南詔王国の後身の大理王国の衰退とともに移動が活発になり、これが1253年、元のフビライ・カンに滅ぼされるまで続いた。これを契機として、インドシナ半島各地でタイ族によるムアン(国)がいくつも興された。シャン州各地でも多くのムアンが興った。各ムアンはサオパーとよばれる王が治めていた。「天の支配者」という意味のサオパー(タイ語でチャオファー)は、後年、ビルマ人、イギリス人も誤った発音で「ソーボワ」と呼んだ。サオパーは父系的に世襲され、立法、行政、司法の全権を一手に握っていた。領民(タイ・ヤイ族、タイ・クーン族、その他)は、河谷盆地で水稲耕作を営み、毎年、米や茶などの年貢を納めていた。シャン州には1935年までは43のムアンがあった。その内の最も領地の広い有力なムアン、チェントゥン王国は、14世紀初め、ラーンナー王国の始祖マンラーイ王の息子の一人によって興された。初めはトゥンガプリ王国と呼ばれていて、居住するタイ族は、雲南シプソンパンナー(西双版納)などから分派したタイ・クーン族、タイ・ヤイ族の文化・風習をもち、政治的にはラーンナー王国の影響を受けていた。チェントゥン王国の王統は、マンラーイ王直系であり、タイ・クーン族と称した。1962年ビルマによって滅ぼされるまで、58代(別の資料では43代)、600年余りにわたって続いた。しかし、王国の歴史は平穏ではなく、16世紀にはビルマ族のタウングー王朝に、17世紀には明朝に、19世紀初めにはラーンナー王国に領有され属国とされた。さらに、1886年、ビルマはイギリスの植民地となり、イギリス軍がシャン州にも進駐して、イギリス領インドの属国とされた。第2次大戦中は日本軍が進駐し(1942−45)、シャン州も戦場となり人々も戦渦に巻き込まれた。この間、日本の同盟国シャム王国の領地となっていた。戦争が終わると、再びイギリスが復帰したが、1948年ビルマ連邦への参加、独立をめぐって内戦になった。1956年には中国共産党に追われた蒋介石の中国国民党軍約1万人がシャン州に越境し、中国内戦の戦場となった。その後、ビルマ連邦による圧力が高まり、1962年3月2日ネー・ウィンによって軍事クーデターが起こされ、この日、ついにすべてのムアンが滅ぼされた。この際、サオパーはビルマ連邦からシャン州の離脱を企てたという理由で全員逮捕、ラングーンに投獄された。彼らは1968年には釈放されたが、ムアンには戻れず、すべての権限を剥奪され、財産はすべて差し押さえられた。

 チェンマイへ戻る前日夕方、チャイントン・ホテルの前を歩いているとき、自転車に乗っている男性に、偶然再会した。彼とはチェントゥンに到着した日、中華料理店で出会った。彼は歴代国王の墓地の鍵を持っているという。パーレン門近くの墓地の扉を開けてもらい、中へ入った。それほど広くはない墓地には、右から順に51代から57代までの墓が並び、そして51代の右に58代国王の真新しい墓が建てられていた。男性の名はサオ・ウー・ムン(1946.1.5生)。最後の58代国王サオ・サイ・ロン(1927.9.10−1997.9.14、在位1946.4.12−1962.3.2)の子息である。58代国王の墓は、国王が1997年ラングーンで病死した後、この子息によって建てられたものだ(1998.4.25)。墓石の表にはタイ・クーン語で、裏には英語で書かれている。

 チェントゥンは、今では、イギリス統治時代から何の発展もないような古びた街ではあるが、穏やかな清々しい気候、そして何よりもタイ・クーン族、タイ・ヤイ族の人々の飾らない人柄に接していると、遥かな王朝時代が偲ばれる。

チェントゥンと日本人
 チェントゥンに到着した夕方、中華料理店で夕食を取っていた。そのとき一人の男性(後で最後の国王の子息と分かった)が話しかけてきた。「日本人か?」と聞かれたので、そうだと答えると、「昔、日本人が64人日本からやって来た。その日本人は勲功によってクンの称号を与えられ、貴族としてもてなされた」と言う。数日後訪れたタイ・クーン様式の寺院ワット・ヤンローでも、僧侶が「昔、日本人が46人やって来た。日本人とタイ・クーン族の文化・風習は良く似ている。着物の左前、建物の屋根瓦、…」と言った。昔、山田長政が毒殺された後、アユタヤを追われた武士は200~300人ビルマに逃れたらしい。そのうちの何人かは、タイ族が居住し、言葉の近いチェントゥンにやって来たとしても不思議はないだろう。どうやら、この話、チェントゥンに「言い伝え」として残っているようだ。

(Nov.2004)


あと電気と水さえあれば  - タイ・ヤイ族、タイ・クーン族の人々 -


小和田佐重(こわださじゅう)

 北ビルマ、シャン州は、ラーンナーと同様、民族のるつぼだ。タイ族、ビルマ族、中国人(漢族、回族)、アカ族、ラフ族、……。数え上げれば切りがない。シャン州に居住するタイ族は、タイ・ヤイ族がシャン州全域に、チェントゥン周辺にはタイ・クーン族、中国雲南シプソーンパンナー(西双版納)に国境を接するムアン・ラー(マイラー)にはタイ・ルー族(中国語の俗称では水?族)などである。今回のチェントゥン滞在中には、郊外のタイ・ヤイ族、タイ・クーン族の村をいくつか訪れた。

 先ず、チェントゥンから北東に、サムロー(三輪タクシー)で1時間ほど、辺り一面に広がった緑の水田に囲まれたタイ・ヤイ族の村バーン・ワンタウを訪れた。
雲南、徳宏州の端麗、中国・ビルマ国境に流れる端麗江(ナム・マウ河)の辺に、かつてタイ・マウ族の古代王国ムアン・マウ(モンマウ)があったと伝えられている。ここはタイ族が「揺籃の地」と呼ぶように、タイ族の多くの伝説のあるところである。ウーティン王物語、クン・ルン、クン・ランの神話、コントン王物語、…。タイ・マウ族は、ナム・マウ河対岸の中国領に住むタイ・ルー族と同じ種族である。単に現在の国境線がナム・マウ河に引かれたことによった自称の違いに過ぎない。タイ・ヤイ族は、ムアン・マウの人口の過剰によって、ここからサルウィン川とメコン河に挟まれたシャン州に移動し、タイ・ヤイ族と称したのだ。したがって、タイ・ヤイ族のルーツはシプソーンパンナーにある。風俗・習慣が似通っているのはこのためだ。たとえば、チェンマイのカントーク・ディナー・ショーで披露される「孔雀の舞」。これはタイ・ヤイ族の伝統舞踊ではあるが、似たような踊りはシプソーンパンナーのタイ・ルー族の村でも見られる。
バーン・ワンタウの一軒にお邪魔した。タイ・ヤイ族の家屋は、ほとんどのタイ族の家屋と同じように木造高床式入母屋造りである。階段を上ったところに広いベランダがあり、ここが居間になっている。ご主人にこの居間に導かれ、お茶(緑茶だった)をご馳走になった。タイ・ヤイ族は客人をお茶でもてなす。これもタイ・ルー族に近い習慣のようだ。(タイ・ルー族は今ではほとんどお茶を飲む習慣がなくなってしまったようだが、かつてはあったようだ)タイ・ヤイ族は、おおらかで親しみ深い人々である。私を迎え入れてくれた家でも、「あんたが、この村に来た始めての外国人だよ」と、タイ・ノーイ語でうれしそうに話してくれた。チェントゥンのタイ族は、ほとんどの人がタイ語を話せる。彼らは、自らをタイ・ヤイ族(大タイ族)と称し、タイに住む人々をタイ・ノーイ族(小タイ族)と呼んでいる。別段、差別的な意味があるのではなく、体格の大小からくるのだという。彼らも上座部仏教を信仰している。この村にも小さくて素朴な寺があった。若い僧侶がタイ・ヤイ語で書かれた仏典を勉強していた。ここでも僧侶にお茶でもてなされた。境内の片隅には、精霊信仰(アミニズム)の祠もあった。チェントゥンでは、今でも男子は10才くらいになると、ほとんど皆出家する。いつでも環俗しても良いということだが、その間、タイ・ヤイ文字の学習から、タイ族の歴史まで教育される。今でも寺院が男子の教育機関として機能しているのだ。

タイ・ヤイ寺院での小坊主の勉強風景 間近に迫ったタイ・ヤイ語の試験のために大声を出して猛勉強

 次に、チェントゥンの城郭の外、ノーンパー門から北西へ20分ほどのところにあるタイ・クーン族の村バーン・ヤンローを訪れた。
 タイ・クーン族はほとんどチェントゥン城郭内とその周辺のみに居住している。ここでは先ず、村のほぼ中心にある美しい寺院ワット・ヤンローを訪れた。かなり有名な寺院のようで、タイのシリントーン王女が訪れており、その際の写真が飾ってあった。タイ・クーン族の家屋は、タイ・ヤイ族と同様に木造高床式入母屋造りであるが、ベランダはない。あるいはあっても日本の家屋のベランダと同じくらいで、コン・ムアン(ラーンナーの人々)の家に似通っている。家と家との間の垣根は高く、開放的なタイ・ヤイ族に比べて閉鎖時な印象を受ける。村人に話を聞こうとしたが、警戒心が強いのか、羞恥心が強いのか、無視されてしまった。一軒の家のベランダで老婦人が絹の機織をしていた。招き入れてくれはしたが、あまり話を聞くことはできなかった。
 シャン州の中で最も威勢を誇ったチェントゥン王国は、ラーンナー王国の始祖マンラーイ王の息子の一人によって興されたほとんど唯一のタイ・クーン族のムアンである。民族的にはタイ・ルー族に近く、政治的にはラーンナーとの関係が強かった。タイ・クーン族は、タイ・クーン語を話し、タイ・クーン文字を書く。当然のことだが、タイ・ヤイ語に近いが、カム・ムアン(ラーンナー語)にも良く似ている。普段、タイ・クーン族とタイ・ヤイ族との違いはほとんど分からないが、祭事の民族衣装はかなり異なっていて、風習も相当に異なっているとのことだ。ワット・ヤンローの僧侶によれば、タイ・クーン族の言語・風習はラーンナーのほうに近く、タイ・ヤイ族の方はビルマ族のほうに近いということだった。

 チェントゥンは、まだまだ快適に旅行できるというところではない。ターチレクからチェントゥンへの僅か4時間程度の間にミャンマー軍の検問所をいくつも通らなくてはならないし、道路の舗装状態は悪く、埃に塗れてしまう。おまけに、電気もない。チェントゥン市内で町の祠を説明してくれた元教師のタイ・ヤイ族の町の世話役が、こう呟いた。「チェントゥンはいいところなんだ。気候はいいし、人々もいい。あと電気と水さえあれば……」

チェントゥンでは珍しいタイ・ルー族の村の標識 
タイ・クーン語(左上)ビルマ語(右上) タイ・ヤイ語(左下)タイ語(右下)


英国人の避暑地         
チェントゥンから東へ33km。山奥のまた山奥、果てしない未舗装の山道をバイクで登ること1時間40分。急に視界が開け、海抜1,600mのドーイ・ムエの広々とした山頂に出る。ここは別天地。100年以上も前のイギリス人のレンガ造りの古びた家屋が湖の岸に20棟あまり点在する。イギリス人は、暑いチェントゥンから気候の涼しい場所を探し求めて、ここに避暑地を造ったのだという。それにしても、よくぞ、こんな山奥まで探し求めて来たものだ。イギリス人の飽くなき避暑地探しには呆れ返る。第2次大戦中、日本軍はチェントゥンまで侵攻して来た。日本軍もまた、イギリス人を追い求めて何もないこんな所までやって来た。日本軍の執念にも呆れ返る。今では、ここにミャンマー軍が駐屯している。国境地帯でもないし、ラフ族以外誰も住んでいないというのに、一体何のために。ミャンマー軍の支配欲にも呆れ返る。
 ラフ族の村で昼食に糯米を注文した。なんと胡麻塩がかかっていた。懐かしい日本の味だ。ここから赤糯米(赤飯のルーツか?)と黒糯米を持って帰った。重かった。自分自身、呆れ果てた。

(Dec.2004)


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