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パヤオ - 小国の悲哀はいつまで続く -


小和田佐重(こわださじゅう)

 チェンマイの旧ホーカム(宮廷)、現チェンマイ市芸術文化センターの前の広場に「3人の王様の銅像」が建っている。中央がラーンナー王国のマンラーイ王、右がスコータイ王国のラームカムヘン王、そして左がパヤオ王国のガムムアン王である。マンラーイ王とラームカムヘン王はよく知られているが、ガムムアン王については知る人は少ない。

 ガムムアン王ゆかりの地パヤオは、チェンマイから北東へ160キロ、3時間、チェンラーイからは南に95キロ、僅か1時間半のところに位置している。パヤオに入るとすぐに、美しい湖クワン・パヤオが目に入ってくる。クワン・パヤオは北タイ最大の湖で、パヤオの象徴ともなっている。パヤオの街は、湖の東岸に僅かに広がっていて、対岸にはドーイ・ルアン(1,697m)、ドーイ・クンメーファット(1,550m)、ドーイ・クンメータム(1,330m)の山々が連なっている。
 パヤオ王国の創建は非常に古く、チェンセーン附近にあったムアン、グンヤーンの国王の息子クン・チョム・タムによって、1096年に興されている。ガムムアン王は第9代国王に当たる。マンラーイ王も、父親がグンヤーンの国王であることから、ガムムアン王とマンラーイ王は血縁関係に当たる。ムアンは、当初プーカームヤオと呼ばれていたが、後に短くパヤオとなった。
 街を散策した。しかし、街にはかつての王国を物語るものは、ほとんど何も残ってはいなかった。かつては城壁に囲まれていた旧市街も、1920年代に城門ともども取り壊されて、今では跡形もない。僅かに残っているといえるのは、湖の畔にいくつか点在する木造の洋館(近代のシャム王朝期のもの)くらいである。湖畔の公園には、ガムムアン王の銅像が湖に向かって立っている。ここで、穏やかな湖面を見ながらまどろんでいると、というより、暑くてボーっとしていると(とにかく暑かった)、3人の王様の物語が、頭を過ぎってきた……

 かつてラーンナーには、毎年新年のソンクラーンに近くの大きな川へ行き、髪を洗うという慣わしがあった。ある年のソンクラーン。ルアン王ことスコータイのラームカムヘン王は、ラーンナーの慣わしに従ってメコン河へ髪を洗いに行った。帰りにふと思いついて、遠回りにはなるが、古くからの友人、パヤオのガムムアン王を訪ねることにした。
ルアン王が、パヤオの王宮に到着すると、あいにくガムムアン王は外出中で、一人の女性が出迎えた。
「ようこそいらっしゃいました。ルアン王さま」
出迎えの女性を見たルアン王は、ハッとした。
「なんという美しい女だ!」
“英雄色を好む”と言われるように、ルアン王も大の女好きだ。(多分、そうだ。いや、きっと、そうに違いない!)
ルアン王は、奥に通される間にも、もうこの女性のことで頭が一杯になってしまった。
「私は、ウア・チェンセーン(チェンセーン家の次女)と申します。ガムムアン王の第1妃でございます」
「なっ、何だって! ガムムアン王の妃だって! なんということだ。もったいない!」
がっかりしたルアン王は、すっかりしょげ返ってしまった。そこへウア・チェンセーンが料理を運んできた。
「ルアン王さま。私の特製の手料理でございます。王様がお帰りになるまで、どうぞごゆっくりとお召し上がりくださいませ」
と魅惑的な笑顔を振りまいて、ルアン王をもてなした。
手料理を食べたルアン王は、我を忘れて、すっかりのぼせ上がってしまった。
スコータイに戻った後も、ルアン王はウア・チェンセーンのことを片時も忘れることができず、それからというもの何かと理由をつけては、パヤオへ出かけて行こうとした。
「メコン河へ髪を洗いに行くぞ」
「王様。今はソンクラーンではございません。メコン河で髪を洗うのはソンクラーンのときだけというのが、慣わしでございます」と家臣。
「それはラーンナーの慣わしだ。スコータイでは洗いたいときに洗うのが慣わしだ」
とかなんとか屁理屈をつけては、ウア・チェンセーンの元へ通い続けた。
ある時、ルアン王がウア・チェンセーンの別邸を訪れているとき、ガムムアン王より、使者を通じて食事への招待状が届けられた。
「とうとうガムムアン王の知れるところとなってしまったか」
と後悔をしても、もはや後の祭り。しかし、ウア・チェンセーンへの思いは断ち切れない。周囲は垓下に包囲され、四面楚歌。
「おお、ウアよ。なぜにそなたはかように美しい。その美しさ故、道ならぬ恋に落ちてしまった。かようなこと、たれが許されようぞ。
ああ、ウアや、ウアや、若(なんじ)を奈何(いかん)せん」(虞兮虞兮奈若何。項羽「垓下歌」より)
「私たちは周囲を囲まれてしまいました。でもルアン王さまがお気力をなくされては、私はどうして生きられましょう」(四方楚歌声、大王意気尽、賤妾何聊生。虞美人「返歌」より)
ルアン王は、一旦は呪術で“金色の鹿”に姿を変え逃げ遂せたが、やがて捕えられ、城門脇の牢獄に閉じ込められてしまった。
ルアン王を首尾よく捕えたガムムアン王はといえば、
「ルアン王には死で償ってもらうのが世の道義だ。しかし、相手は大国スコータイ。戦さともなれば、我が小国パヤオなど一溜まりもない。どうしたらよいものか」
悩みに悩んだガムムアン王は、
「そうだ! 苦しいときのマンラーイ頼み!」
とばかりに、チェンラーイの友人マンラーイ王に助けを求めた。
かくして三者会談が始まった。
マンラーイ王は始めに「私は神に清められた偉大な王である。功績があり、慈悲がある。その上、大きな権力もある」
ルアン王「私のほうから誘ったのではない。彼女の料理を食べたら……。ふと出来心で……。若気の至りだ」(このとき40歳代)
ガムムアン王「ウアの手料理を食べたのだな? 彼女得意の媚薬入りに違いない」
さらに続けてガムムアン王「私は偉大な王である。人徳があり、慈悲がある。妃はウア一人だけではない。何人もいる。私ほどの王ともなれば、妃になりたいと言う者は後を絶たない」
そこで、マンラーイ王は、ルアン王はガムムアン王へのお詫びとして、現金9ルン9ルアン(990,000タカラガイ、当時貝殻を貨幣として使っていた)支払うこととする裁定を下した。
ガムムアン王は、湖の畔で三日三晩、宴を催し、マンラーイ王の労をねぎらった。(カラオケで盛り上がったかどうかは定かではない)その後、3人の王は、イン川の辺へ行き、3人の血を混ぜた水を飲んで、永遠の友情を誓った。更にルアン王は、宮殿でガムムアン王に得意の呪術を伝授した。このため宮殿はワンカム、黄金宮殿と呼ばれるようになった。

 パヤオ王国は、一時、近隣の更に小国のナーン王国を領有する程までに勢力を拡大していった。しかし、ルアン王直伝の呪術もここまで。その後、1338年にはマンラーイ王の孫カムフー王によってラーンナー王国に領有され、1439年にはスコータイ王国に領有されてしまう。さらにはシャム王国の時代になっても、パヤオはチェンラーイ県の一部に組み入れられてしまい、ようやく1977年になってパヤオ県となった。現在は、北タイ最貧県の一つであり、貧困のため都会に出て性産業に従事する女性も多く、HIV感染が大きな社会問題となっている。一体、小国の悲哀はいつまで続くというのだろうか。頑張って欲しいと、影ながら応援したくなってしまう。

ホテイアオイのバッグ


 このところタイではOTOPと名付けられた製品展示・販売会が盛んに行われている。OTOPというのは、大分県の一村一品運動をモデルとして作られたタイ版一村一品運動―One Tambon One Product―のことである。これは、タイ伝統の手工芸や地域農産物を活かした食品などの生産・販売によって地域経済の活性化を目指すというものだ。このプロジェクトは、最近定着しだして、現在タイ全土の約5,000村で16,000品もの製品が生産されているそうだ。
 OTOPは2001年から始められたが、それよりずっと前、27年も前からパヤオの寒村で作られている物がある。
パヤオの街の湖の対岸にバーン・サンパームワンという村がある。何の変哲もない村だが、日本に居る人には、知る人ぞ知る、結構有名な村である。ここでは、クワン・パヤオ(パヤオ湖)に群生する水草ホテイアオイ(布袋葵、を材料として利用し、バッグなどの小物を作っている。竹や藤でできたものより柔らかく、味わいがある。特に工場などあるわけではなく、村の家の主婦が作り(編み)、村長の家で仕上げして、販売している。結構人気があるようでチェンマイには専門店もあるが、値段はかなり高くなっているという。日本人には特に人気があるようで、サンパームワン村まで訪れる人も多いようだ。日本人の書いた記帳やら手紙をさんざん読まされてしまった。タイ語で書いてください。

(Feb.Mar,2005)


ピーが出た!


小和田佐重(こわださじゅう)

 以前、私は古い木造二階建ての家に住んでいたことがある。日が暮れかかったある日の夕方、家の手伝いをしてもらっている娘(こ)が戸締りをしに二階へ上がって行った。しばらくすると、突然、「ギャーッ!」と叫び声をあげ、血相を変えて、階段を転がり落ちるように下りてきた。「ピーが出た!」と言って怯えている。ピーといっても、お兄さん、お姉さんのピー(??)ではない。ピーィと下から上へ上がる声調の“お化け”のピーのことだ。

 タイ人のおよそ95%が仏教(上座部仏教)を信仰している。しかし、いくら仏教がほとんど国教といえるほどの定着があろうと、外来の宗教(13世紀に先住のモーン族より伝わった)には違いがない。タイ人の信仰の底には、何らかの自然の力への怖れや敬いがあるようだ。精霊信仰(アミニズム)が風習全体を覆っているようだ。街角や民家の軒下にはサーン・プラプームと呼ばれる地霊を祀った祠を見ることができるし、朝には人々が祠の前で祈りを捧げている光景に出会うことが多い。一般のタイ人は、精霊や悪霊といったお化けを総称してピーと呼んで恐れている。電灯の灯かりが明るくなったり暗くなったり揺れることが、チェンマイではしばしばある。手伝いの娘は、ピーの仕業だといっては怖がる。単に電圧が不安定なだけなのに……。外から電気が点いていない筈の家の中に灯かりが揺れているのを見ては、ピーの仕業だといっては恐れおののく。これも外灯の灯かりが風に揺れているのが映っているに過ぎないのだが……。とにかく、なんでもかんでもピーのせいにする。それ程怖がっているピーなのに、どういう訳なのか、興味を抱いてもいる。テレビドラマを観るのは、いつも決まって、主人公が大邸宅に住んでいるようなメロドラマ(といっても、張り倒しや金切り声ばかりあげているが)と、ピーの出てくるお化けものばかりである。またタイのテレビも年がら年中お化けものをやっている。タイではお化けに季節はないようだ。
 さて、怯えている手伝いの娘にどんなピーを見たのか聞いてみた。白髪で髭を生やした老人だという。服装はというと、伝統的なジョーン・グラベーンをはいていたらしい。どうやら老爺のピー、ピー・グラのようだ。ピー・グラは「ここを追い出さないでくれ〜。お願いだから、ここにおいてくれ〜」と言ったそうだ。どうやら、見たこともない、恐ろしそうな外人に追い出されるとでも思ったのだろうか。
 タイのピーには、男性のピーは少ない。ほとんどが女性のピーである。そして、自然界のほとんどあらゆるものにピーが宿っているという。古い大木にはナーン・マイというピーが、ターニーという野生のバナナにはナーン・ターニーというピーが宿っている。いずれも美しい女性のピーである。ナーン・マイは古木を勝手に切りさえしなければ、人に危害を加えることはなく、普通は人々を守護する。ナーン・ターニーは全身から芳香を放って男性を誘惑する。こんなピーなら一度はお目にかかってもいい。が、次のようなピーはご遠慮したい。切られた首を持っている首無し男ピー・ホア・カート。処刑された兵士のピーだろう。食いしん坊婆さんピー・ポープ。下半身がなく上半身の内臓が見える女性のピー・グラスー。いずれも人の内臓が大好物。これにとり憑かれると、内蔵を食べつくされて死んでしまうという。森の中に住む一本足のピー・ゴーンゴーイ。チュッチュッと鳴きながらピョンピョンと跳んできて、眠っている人の足の親指から血を吸い取る。また、こんなピーもいる。主人一人だけに忠実な胎児のピー、グマーン・トーン、黄金の子供)。グマーン・トーンを育てている人が結構いるらしい。木で作った人形のことが多いということだが、本物の胎児を煮詰めて聖水を入れたビンの中に入れておくのが本来のグマーン・トーンだ。そこにピーが入っていて、必要なときに呼び出しては用事をしてもらう。留守番をさせたり、留守中の出来事を報告させたりする。グマーン・トーンは食事を与えたりして、きちんと世話をしなければならない。そうしなければ言うことを聞かない。少々気色悪い。
 ラーンナーでは伝統的に、結婚した夫婦は妻の家に住むことになっている。カオ・ピー(家の霊)が母から末娘へと受け継がれていくためだ。異なったカオ・ピーをもつ女性が同じ家に住むと、カオ・ピーどうしが喧嘩してしまうのだ。タイ人どうし、チューレン、あだ名)で呼び合うのもピーのためらしい。生まれた子どもにいい名前をつけると、ピーに目を付けられて連れ去られてしまう。悪いチューレンを別につけて、チューチン、本名)を口にしないのだ。だからエー(A)とかビー(B)という名前があるのか。生まれたときから少年Aや少女Bではかわいそうな気がするが……。

 夕方、雨が降りそうになったので、手伝いの娘に二階の戸締りをするように言った。しかし一人では行かれない。一緒について来て欲しいと言う。仕方なく一緒に二階へ上がると、急に突風が吹き、窓がバタッと閉まった。「ピーが出た!」と言って、いきなり私にしがみついてきた。日ごろから行いを良くしておくことである。ピーもたまには粋な計らいをしてくれる。

(Apr.2005)


ジョンラックのノスタルジー


小和田佐重(こわださじゅう)

日本の知人Hさんが訪ねてきた。Hさんは50数年前、戦後も間もないバンコクで7年にも渡って働いていた。日系自動車会社のタイヤ部門のセールスを担当し、タイ中隈なく歩き、チェンマイにも鉄道で、ナコーンサワン、ピサヌローク、ラムパーン、チェンマイへと一ヵ月かかってやって来たという。それ以来、50年ぶりの来タイである。


 Hさんが滞在していた1950年代のタイは、どんな時代だったのだろうか。1932年、バンコクで立憲革命が起こった。その結果、絶対王制は終焉し、近代西欧的な、国王が象徴的な意味しか持たない立憲君主制へと変わった。国王の特権は制限され、議会の半数は普通選挙で選ばれ、政府は民主化された。それまでのタイの社会構成は、中産階級がなく、都市に住む王族・官吏からなる上層の特権的支配者と農村に住む下層の一般農民との二極分化していた。農村部の農民は、都市部の上流階級の政治・文化には全く知識も関心もなかった。クーデターによる急激な民主主義への移行が、タイ社会を混乱させ、民主主義を抱えながらも次第に逆行反動化し、ピブーンソンクラーム(1897-1964、亡命先の相模原にて没)による軍事独裁政権へと確立していった。皮肉にも、民主主義を目指した立憲革命が、92年の5月民主化運動まで延々と続く軍事クーデターの繰り返される軍事独裁政治の始まりとなった。
この時代、ナショナリズム(国粋主義)の高揚が行われ、社会・文化の近代化が行われた。タイの近代化というのは、ヨーロッパとの接触とその影響によるもので、タイ文化の西欧化が行われた。音楽面においても、プレーン・タイ・サーゴン(西欧風タイ音楽)がもてはやされた。プレーン・タイ・サーゴンは、プレーン・ルークトゥンとプレーン・ルーククルンと呼ばれる音楽に分けられる。プレーン・ルークトゥンというのは“田舎の子の歌”という意味で、都会に出稼ぎに来た労働者の望郷の音楽だ。標準タイ語で歌われるが、こぶしを利かせた歌い方から“タイの演歌”という人もいる。ルークトゥンは、現在でも次々と新しい歌手が出現し、新しい曲を歌っている。それに対してプレーン・ルーククルンは“都会っ子の歌”というように、都市に住むインテリや上流階級にのみ受け入れられた。ルーククルンは、その名のとおり、西欧風の洒落た都会的なイメージを感じさせる音楽だ。歌手の活動した場所はというと、上流階級の社交の場であるホテルのボールルームやナイトクラブだったが、それよりも当時普及してきたラジオによって爆発的に流行った。ルーククルンでもっとも有名なのは、スンタラーポーンである。ヴァイオリン奏者のウア・スントンサナーン(1910-1981)が組織した楽団で、1930年代から活動をはじめ60年代まで人気が続いた。「待っています」「恋しい」「愛しい心」など千数百曲ものヒット曲を送り続けた。スンタラーポーンの他、サワリー・パカーパンやステープ・ウォンガムへーン(東京藝術大学に留学)など多くの歌手が喉を競い合った。しかし70年代に入ってアメリカの新しいポップスミュージックが入ってくると、ようやく都市部に増加してきた中産階級の若い人々はアメリカ風ポップス音楽に流れていってしまい、ルーククルンは廃れてしまった。時代が下って、タイでは1987年から高度経済成長が始まった。と同時に往年のルーククルンのヒット曲が次々と街に流れてきた。高度経済成長による急激な生活の変化に戸惑う人々が、古き良き時代へのノスタルジーに救いを求めたのだろうか。私がタイに通い始めたのは、ちょうどこの時期に当たる。往年の歌手のテープがリバイバルしていた。アメリカ風ポップス歌手も競ってルーククルンを歌いだした。元祖アイドル歌手パイチットやチェンマイ出身の才媛ナンティダーも歌っていた。当時「サバーイ・サバーイ」が大ヒットしていたトンチャイ(当時はまだBirdではなく人間だった)さえルーククルンのテープを出した。私は、スンタラーポーンを現代風にアレンジした楽団、ユアマイに惹かれた。専属の女性歌手オラウィーの歌声にはしばしば心を癒されたものだ。しかし、せっかくリバイバルしたルーククルンも1997年突然のバブル崩壊と共に一気に泡となって消え去ってしまった。

 Hさんの帰国前日、メーピン河沿いのタイ料理レストランで食事をした。静かな店内からは、メーピン河の向こう側に見えるドーイ・ステープの山陰に、真っ赤な夕日がゆっくりと沈んでいった。店内では、若い女性によるギターの弾き語りが始まった。しばらくしてHさんはステープの「ジョンラック」(愛をください)をリクエストした。
「この曲はねぇ、よく流行っていたよ。どこへ行ってもねぇ、ラジオから聞こえてくるのはこの曲ばかりなんだ」
ようやく譜面を探し当て、歌が始まった。
『どうか私の過去を聞かないで 前に誰を愛したかなんて聞かないで……』
Hさんは当時を夢見るような表情をしている。その当時、Hさんはまだ20代。
「よくもてたよ。本当によくもてたよ。でもねぇ、今とは時代が違うからねぇ……」
『今はあなたを愛しています これからもずっとあなただけを愛し続けます』
突然、歌が止まった。
「すみません。これ以上歌えません」
若い人はもうルーククルンを知らない。

(May.2005)


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