お年寄りに聞きました。「戦争の頃はどうでしたか?」
藤田松吉さん(87歳)
長崎出身の藤田さんは、第二次大戦時に中国、シンガポールと転戦し、インパール作戦に参加。その後陸路でチェンマイまで逃げてきました。ビルマやメーホーンソーンの人の親切をよく覚えているということです。一旦は日本に戻られましたが、またタイに戻り、現在はお子さんとお孫さんと共にランプーン県パサーン郡のラムヤイの木に囲まれたお宅にお住まいです。周りの人にはルン・カム(カムおじさん)と呼ばれています。
戦後、厚生省による遺骨収集にも協力され、厚生省が収集を打ち切った後も、ご自分で慰霊塔を建て、今も戦友の霊を弔っておられます。「誰に言われて建てたわけじゃなし。お参りに来たい人はいつでも来たらいい、来たくなかったら来なくてもいい。誰でも心の中に神さまがいるだろうから」とおっしゃっておられました。ビルマで負傷した足が痛み、最近は歩くのもつらい、ということですが、長い時間お話させていただきました。
戦争の時は、まず広東におってな、その後タイ国への転戦命令があってタイに来た。タイで、シンガポールへ向かう命令を受け、マレーを通って陸路でシンガポールへ向かった。シンガポールのイギリス軍は、日本軍が侵攻するとあっという間に降参しよった。シンガポールでは2ヶ月くらい捕虜収容の任務についておった。
その後日本へ戻る予定じゃったのが、今度はビルマへ行けという命令じゃ。陸路でマンダレーまで行き、そこからインパールへ向かったわけじゃ。しかし、えらい戦いじゃった。三方四方からイギリス軍に撃たれ、身動きできんのじゃ。夜間も物音をさせんように気を使った。足音ひとつさせて砲弾をくらったこともあった。
そんなある日、隊の中に砲弾が撃ちこまれ、どうしようもなくなり撤退命令がでた。わしは左足を貫通する怪我をしておったが、連隊へ行っても薬もないわけじゃ。木を杖代わりにして自力で逃げるしかなかった。ジャングルには、人の頭と同じくらいの大きさの頭をした大蛇が木の上からぶらさがっておったり、象やらトラやらいろんな獣がおった。「お前らには何も悪さをせんぞ、だからお前らもわしに悪さをするな」と念じておった。
フーコンからなんとかサルウィン河までたどり着き、小舟で河を渡った。河を渡ったところで地元の人に牛を譲ってもらい、これも譲ってもらった米や野菜を担がせてタイを目指した。食料は本当に節約して食べた。そうしてやっとのことでメーホーンソーンについた。メーホーンソーンでは部落長の人がわしの足のけがを見て、自分の家で治療してくれ、随分と助かった。それからチェンマイに向かったわけじゃ。ドーンゲーオというところの病院に行ったが、ここでも薬もなにもなくて何もできんのじゃ。なんのために病院におるのかと、軍医につっかかったこともある。
戦争の後、またここに戻ってきて今まで暮らしておるが、まぁよかったことも悪かったこともあるな。でも自分で選んだことじゃから後悔はないな。
ジャリン・ベンさん(82歳)
通称アンクル・ジャック
太平洋戦争時勃発時は、メージョー大学で農業を勉強する学生じゃった。まだ学業が残っていたのだが、戦争の勃発で繰り上げの卒業となった。この年を、日本の当時の首相、東條の名前にちなんで、ピー・トウジョウ(トウジョウの年)と呼んでいる。
日本軍がタイにもやってきて、当時チェンマイに住んでいた諸外国人は、メーサイからビルマを通って中国へ抜け、本国へ帰った者も多かったと聞いている。私の父は、チーク材を扱う会社を経営していたスコットランド人だったが、どこにも逃げずに家族と一緒にチェンマイにおった。家族と共にチェンマイに残った西洋人は父を含めて5人いたと記憶している。 しかし、そのうちチェンマイにも日本軍が駐留してきて、この5人はバンコクに送られてしまった。西洋人がつくった、プリンスロイヤルカレッジ、ダラーカレッジ、マコーミック病院などは日本軍が占領していた。母と私たち兄弟はタイ国籍だったので、チェンマイに住むことができたが、私は念のためにチェンラーイへ疎開した。当時姉はフィリピンの大学に留学中だったが、やはり進駐してきた日本軍によってタイに強制的に戻されてきた。
チェンラーイではタバコ畑で働いておった。戦争だからといって何も困ったことや不便なことはなかったが、昼間に車で移動をすると、中国の昆明から飛んでくるアメリカ軍の飛行機に銃撃されやすいので、車移動は夜間のみだったのは不便だった。パヤオからランパーンまで米を運ぶのに、昼間は休憩して、夜間のみ移動して行った話や、水牛に曳かせた牛車がなぜか銃撃されて、水牛がみんな死んでしまった話などを聞いたことがあるな。チェンマイでも、チェンマイ駅に爆弾が落とされて300人くらいが亡くなったと思う。日本軍が鉄道を使って武器をランパーンに運ぼうとしている、という情報でアメリカ軍が行った爆撃だったそうだが、日本軍は一日前に輸送を終えていて、犠牲になったのは地元の人たちがほとんどだったということだ。戦争が終わると、父は釈放されてチェンマイに戻ってきた。私もチェンマイに戻り、父の木材会社を手伝うことになった。
戦争前に、チェンマイで写真館を開いていたタナカという日本人がおった。皆は、ナーイハーン・タナカ(マスター・タナカ)と呼んでいた。父はこのタナカと友人で、よく写真を撮ってもらっていたが、戦争が始まるとタナカは父を簡単に日本軍に引き渡してしまった。戦争後、今度は日本人がタイに居づらくなったときに、父はタナカがタイに住めるように便宜をはかっていた。こういう父を自慢に思うよ。
アンクル・ジャックは現在、ピン河近くのワット・ゲートガラム付属博物館の管理人及び案内人。博物館には地域の人たちの家に眠っていた昔の本や食器などが展示されています。少しですが日本軍の物もあります。
ウィライ・ウドムポンさん(69歳)
通称パー・ギ
両親がワローロット市場で野菜や中国野菜の漬物を売る店を出していたので、学校が終わったら毎日両親を手伝ってたよ。お転婆でね、店を抜け出してはピン河でよく遊んだよ。その頃は河の水はとてもきれいで、魚も全部見えたね。
戦争の頃はまだまだ子供だったからよく覚えてはいないけれども、市場に日本の兵隊さんが買出しに来ていたのはよく見たよ。うちのおばあさんが、「こんにちは、おはよ、ありがと」と話しかけると、市場の人達は大笑いでね。兵隊さんも一緒になって笑っていたよ。そう、兵隊さんからお菓子をもらったこともあったね。日本のお菓子だったのか、どこのお菓子だったのかわからないけど、当時はお菓子なんてそんなになかったから随分とうれしかったね。
アメリカ軍の飛行機が空襲に来るから、家の裏庭に穴を掘って、警報のサイレンが鳴ったらそこに逃げ込んでじっとしていたよ。警報サイレンは、ターペー通りにあったタントラパンデパートの向かいの、当時チェンマイで一番高かった建物から出されていたと思う。今のブリティッシュカウンシルの向かいに中華学校があって、そこにも大きな防空壕を掘ってあったよ。でも、空襲はほとんどなかったように思う。
戦争中は映画はなかったけど、中国劇はよく見に行ったね。電気はあまりなかったから、ガスで灯りを灯していたと思う。友だちと夜道を歩いて見に行ってたから、あの頃はのん気なものだったわね。
私が学校を終わって、両親を本格的に手伝っていた頃だから戦後10年くらいの頃、日本人の子供達が市場に来たことがあった。課外授業みたいなものだったのかね、みんな賢そうな顔でノートをとっていた。こんな子供達もいるのか、と感心したもんだね。
パー・ギは輸入食料品とベーカリーの店、カセムストアを切り盛りしています。 |