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終戦記念−チェンマイ周辺の日本兵慰霊場所

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 1941年12月8日、日本軍は真珠湾への攻撃とタイ南部のソンクラーへの上陸を行い、太平洋戦争が始まります。日本はタイと講和条約を結び、タイは日本軍のタイ国内へ駐留を認めます。日本はタイを拠点としてビルマ、そしてインドへと勢力を伸ばしたかったのです。
 インド東北部の街インパールを、ビルマから陸路で攻めたインパール作戦は有名ですが、その作戦のためにチェンマイにもたくさんの日本軍が駐留していました。また、インパール作戦の失敗の後、多くの日本兵がビルマからメーホンソンを通ってチェンマイへと逃げ延びました。過酷な条件の元、多くの日本兵が逃げる途中で、そしてチェンマイで亡くなりました。
 北タイには、戦争の事実を伝え、兵士の霊を慰める慰霊碑がいくつか建てられています。
 戦後、厚生省による遺骨収集が行われましたが、まだ五万から六万体の未収集の遺骨がビルマとタイには埋まっていると言われます。
チェンマイ市内 
ワット・ムーンサーン内慰霊碑

 チェンマイに駐屯していた日本軍の本部がこの寺院内に置かれていた。病院、宿舎はもちろんのこと、軍票印刷所や小さな養豚所や畑もあったらしい。慰霊碑は1980年に元戦友の方たちによって建立された。従軍看護婦としてここに勤務されていた方は、境内の大きなタマリンドの木をよく覚えておられたとか。
 現在、地元の人たちによる郷土資料博物館の準備が進んでいるということなので、日本軍の駐屯を示すようなものがでてくるかもしれない。オープン時期などは不明。

チェンマイ メーリム郡
ワット・ドンゲーオと山岳民族学校

寺院内に日本軍による病院があった。現在は、池が残るばかり。爆撃よけの防空壕跡かもしれないとのこと。僧侶によると、以前敷地内の土地を掘ったところ、人骨が出てきた。日本人のものかどうかはわからなかったが、池に骨を埋め、供養のために祠を建てたとのこと。面倒を見る人があまりいないので荒れ果てた印象である。
 学校内には、防空壕跡が残っている。以前は学校敷地内に多くあったということだが、現在はっきりと残っているのは一ヶ所だけ。

ランプーン パサーン郡
藤田さんのが建てられた慰霊塔

 パサーン郡にお住まいの藤田松吉さんが、日本へ戻れなかった遺骨を集めて建てた慰霊塔。藤田さんに伺ったお話は下のコラムをどうぞ。

チェンマイ メーワーン郡 
バーンガート中学高校内
タイ・ビルマ方面戦病没者追悼之碑と鐘楼

 ビルマからクンユアムを通って逃げてきて、ここで力尽きた日本兵の遺体がバーンガート中学高校内の池に沈められたままになっていた。
  当時の日本軍の軍医であった人の証言でその場所と事実がわかり、1990年に佐賀県の僧侶が中心となって「タイ・ビルマ方面戦病没者追悼委員会」が結成され、1993年に慰霊碑が建てられた。慰霊碑の管理維持を学校にお願いするかわりに、学校の生徒に奨学金を支給する方法をとっている。また、遺骨収集のはたらきかけも行っており、1998年と2000年には厚生省による遺骨収集が行われている。2001年に鐘楼建立。


お年寄りに聞きました。「戦争の頃はどうでしたか?」

藤田松吉さん(87歳)

 長崎出身の藤田さんは、第二次大戦時に中国、シンガポールと転戦し、インパール作戦に参加。その後陸路でチェンマイまで逃げてきました。ビルマやメーホーンソーンの人の親切をよく覚えているということです。一旦は日本に戻られましたが、またタイに戻り、現在はお子さんとお孫さんと共にランプーン県パサーン郡のラムヤイの木に囲まれたお宅にお住まいです。周りの人にはルン・カム(カムおじさん)と呼ばれています。
  戦後、厚生省による遺骨収集にも協力され、厚生省が収集を打ち切った後も、ご自分で慰霊塔を建て、今も戦友の霊を弔っておられます。「誰に言われて建てたわけじゃなし。お参りに来たい人はいつでも来たらいい、来たくなかったら来なくてもいい。誰でも心の中に神さまがいるだろうから」とおっしゃっておられました。ビルマで負傷した足が痛み、最近は歩くのもつらい、ということですが、長い時間お話させていただきました。

 戦争の時は、まず広東におってな、その後タイ国への転戦命令があってタイに来た。タイで、シンガポールへ向かう命令を受け、マレーを通って陸路でシンガポールへ向かった。シンガポールのイギリス軍は、日本軍が侵攻するとあっという間に降参しよった。シンガポールでは2ヶ月くらい捕虜収容の任務についておった。
  その後日本へ戻る予定じゃったのが、今度はビルマへ行けという命令じゃ。陸路でマンダレーまで行き、そこからインパールへ向かったわけじゃ。しかし、えらい戦いじゃった。三方四方からイギリス軍に撃たれ、身動きできんのじゃ。夜間も物音をさせんように気を使った。足音ひとつさせて砲弾をくらったこともあった。
  そんなある日、隊の中に砲弾が撃ちこまれ、どうしようもなくなり撤退命令がでた。わしは左足を貫通する怪我をしておったが、連隊へ行っても薬もないわけじゃ。木を杖代わりにして自力で逃げるしかなかった。ジャングルには、人の頭と同じくらいの大きさの頭をした大蛇が木の上からぶらさがっておったり、象やらトラやらいろんな獣がおった。「お前らには何も悪さをせんぞ、だからお前らもわしに悪さをするな」と念じておった。
  フーコンからなんとかサルウィン河までたどり着き、小舟で河を渡った。河を渡ったところで地元の人に牛を譲ってもらい、これも譲ってもらった米や野菜を担がせてタイを目指した。食料は本当に節約して食べた。そうしてやっとのことでメーホーンソーンについた。メーホーンソーンでは部落長の人がわしの足のけがを見て、自分の家で治療してくれ、随分と助かった。それからチェンマイに向かったわけじゃ。ドーンゲーオというところの病院に行ったが、ここでも薬もなにもなくて何もできんのじゃ。なんのために病院におるのかと、軍医につっかかったこともある。
 戦争の後、またここに戻ってきて今まで暮らしておるが、まぁよかったことも悪かったこともあるな。でも自分で選んだことじゃから後悔はないな。


ジャリン・ベンさん(82歳)
通称アンクル・ジャック

 太平洋戦争時勃発時は、メージョー大学で農業を勉強する学生じゃった。まだ学業が残っていたのだが、戦争の勃発で繰り上げの卒業となった。この年を、日本の当時の首相、東條の名前にちなんで、ピー・トウジョウ(トウジョウの年)と呼んでいる。
  日本軍がタイにもやってきて、当時チェンマイに住んでいた諸外国人は、メーサイからビルマを通って中国へ抜け、本国へ帰った者も多かったと聞いている。私の父は、チーク材を扱う会社を経営していたスコットランド人だったが、どこにも逃げずに家族と一緒にチェンマイにおった。家族と共にチェンマイに残った西洋人は父を含めて5人いたと記憶している。 しかし、そのうちチェンマイにも日本軍が駐留してきて、この5人はバンコクに送られてしまった。西洋人がつくった、プリンスロイヤルカレッジ、ダラーカレッジ、マコーミック病院などは日本軍が占領していた。母と私たち兄弟はタイ国籍だったので、チェンマイに住むことができたが、私は念のためにチェンラーイへ疎開した。当時姉はフィリピンの大学に留学中だったが、やはり進駐してきた日本軍によってタイに強制的に戻されてきた。
  チェンラーイではタバコ畑で働いておった。戦争だからといって何も困ったことや不便なことはなかったが、昼間に車で移動をすると、中国の昆明から飛んでくるアメリカ軍の飛行機に銃撃されやすいので、車移動は夜間のみだったのは不便だった。パヤオからランパーンまで米を運ぶのに、昼間は休憩して、夜間のみ移動して行った話や、水牛に曳かせた牛車がなぜか銃撃されて、水牛がみんな死んでしまった話などを聞いたことがあるな。チェンマイでも、チェンマイ駅に爆弾が落とされて300人くらいが亡くなったと思う。日本軍が鉄道を使って武器をランパーンに運ぼうとしている、という情報でアメリカ軍が行った爆撃だったそうだが、日本軍は一日前に輸送を終えていて、犠牲になったのは地元の人たちがほとんどだったということだ。戦争が終わると、父は釈放されてチェンマイに戻ってきた。私もチェンマイに戻り、父の木材会社を手伝うことになった。
 戦争前に、チェンマイで写真館を開いていたタナカという日本人がおった。皆は、ナーイハーン・タナカ(マスター・タナカ)と呼んでいた。父はこのタナカと友人で、よく写真を撮ってもらっていたが、戦争が始まるとタナカは父を簡単に日本軍に引き渡してしまった。戦争後、今度は日本人がタイに居づらくなったときに、父はタナカがタイに住めるように便宜をはかっていた。こういう父を自慢に思うよ。

アンクル・ジャックは現在、ピン河近くのワット・ゲートガラム付属博物館の管理人及び案内人。博物館には地域の人たちの家に眠っていた昔の本や食器などが展示されています。少しですが日本軍の物もあります。


ウィライ・ウドムポンさん(69歳)
通称パー・ギ

 両親がワローロット市場で野菜や中国野菜の漬物を売る店を出していたので、学校が終わったら毎日両親を手伝ってたよ。お転婆でね、店を抜け出してはピン河でよく遊んだよ。その頃は河の水はとてもきれいで、魚も全部見えたね。
 戦争の頃はまだまだ子供だったからよく覚えてはいないけれども、市場に日本の兵隊さんが買出しに来ていたのはよく見たよ。うちのおばあさんが、「こんにちは、おはよ、ありがと」と話しかけると、市場の人達は大笑いでね。兵隊さんも一緒になって笑っていたよ。そう、兵隊さんからお菓子をもらったこともあったね。日本のお菓子だったのか、どこのお菓子だったのかわからないけど、当時はお菓子なんてそんなになかったから随分とうれしかったね。
 アメリカ軍の飛行機が空襲に来るから、家の裏庭に穴を掘って、警報のサイレンが鳴ったらそこに逃げ込んでじっとしていたよ。警報サイレンは、ターペー通りにあったタントラパンデパートの向かいの、当時チェンマイで一番高かった建物から出されていたと思う。今のブリティッシュカウンシルの向かいに中華学校があって、そこにも大きな防空壕を掘ってあったよ。でも、空襲はほとんどなかったように思う。
 戦争中は映画はなかったけど、中国劇はよく見に行ったね。電気はあまりなかったから、ガスで灯りを灯していたと思う。友だちと夜道を歩いて見に行ってたから、あの頃はのん気なものだったわね。
 私が学校を終わって、両親を本格的に手伝っていた頃だから戦後10年くらいの頃、日本人の子供達が市場に来たことがあった。課外授業みたいなものだったのかね、みんな賢そうな顔でノートをとっていた。こんな子供達もいるのか、と感心したもんだね。

パー・ギは輸入食料品とベーカリーの店、カセムストアを切り盛りしています。

太平洋戦争略年表
1941年 
(昭和16年)
12.8
真珠湾攻撃
マレー半島上陸
12.10
マレー沖海戦
1942年 
(昭和17年)
2.15
シンガポール英軍降伏
3.8
ラングーン占領
ニューギニア上陸
5.1
マンダレー占領
1944年 
(昭和19年)
1.17
インパール作戦認可
3.8
インパール作戦開始
7.4
インパール作戦中止

1945年 
(昭和20年)

3.9
東京大空襲
4.1
米軍沖縄本島上陸
5.1
ラングーン陥落
8.6
広島に原子爆弾投下
8.9
長崎に原子爆弾投下
8.14 
ポツダム宣言受諾
8.15
太平洋戦争終戦

 

日本軍の足跡を訪れる

文/写真 小和田 佐重

 第2次大戦中、日本軍はチェンマイに約3万人駐屯していたという。幸いにもタイは戦場にならなかったせいもあり、タイにおける日本軍の足跡についてはあまり多くは語られていない。チェンマイには、ワット・ムアンサンに、遺族によって慰霊碑が建てられている。今回、ビルマ国境での日本軍の足跡を訪れた。

 早朝、チェンマイより南回りに国道108号線を南下。ホート、メーサリアンを通り、そこから北上。しばらく進むと、チークの林の中を突き抜ける。一面チークの大きな葉の落葉だ。その上を掻き分けながら通り抜ける。なんともいえないほど気持ちがいい。熱帯にいることを忘れさせられてしまいそうだ。この辺りは、バーン・マイサックという。「チークの村」という意味だ。さらに北上を続ける。チェンマイより300キロ、ようやくクンユアムの町に至る。夕方5時、ゲストハウスに宿を取る。
 翌朝、まずワット・ムアイトーを訪れた。タイ・ヤイ・スタイルの美しい寺院だ。ワット・ムアイトーと隣接したワット・フアウィエン(廃寺)は、戦時中、野戦病院、通信センター、軍票印刷所のあったところだ。
 1944年1月、ビルマ占領中の日本軍は英印軍対策として、インド北東部の都市印パール攻略を命令した。ビルマ方面軍(川辺昭三中将)傘下の第15軍(牟田口兼也中将)が、祭第15師団、列第31師団、弓第33師団を率いて、インパールに進軍した。しかし同年7月、補給路なく多くの犠牲者を出し、作戦失敗、撤退した。日本軍の戦死者3万人、戦勝病死者4万2千人にも上った。世界戦争史上最も悲惨な作戦といわれている。
 日本軍兵士は、ビルマ国境を越え撤退。ここクンユアム、そしてチェンマイを目指した。クンユアムの住民は殆どがタイ・ヤイ族。ここに、負傷したり、病気になった兵士がたどり着いた。すべての住民は兵士にできる限りの世話をした。しかし、病気が深刻になり、亡くなる兵士が後を絶たなかった。クンユアムだけでも7千人の兵士が亡くなったという。
 僧侶に寺院を案内してもらった。地元クンユアム出身ということがだ、5年前からの奉公ということで、戦時中の日本軍のことについては、知識はなかった。この寺の境内の多分、野戦病院跡に、「タイ、ビルマに眠る日本兵士に捧ぐ クンユアム星露院」が建てられていた。入口には伊藤桂一氏による兵士への哀悼の詩が供えられていた。

「天に星 地に草の露 はるかに故国を恋いつつ ここに兵士らの 御魂眠る ただ虫の声のみ その武勇のあわれみを悼むなり」

 僧侶が鍵を開けてくれた。中には祭壇が設けられていた。
 境内の隅に、「ビルマ戦線将兵鎮魂之碑」(平成7年11月吉日建立)が、さらに奥には、「日本軍将兵遺骨埋葬の地」の碑が建てられ、日本に持ち帰ることができなかった兵士の遺骨を祀ってあった。しかし残念ながら、あまりきれいには維持されていないように見受けられた。ここには最近はあまり日本人が訪れてはいないと僧侶は話していた。奥まったところにあるので気が付き難いのであろう。
僧侶に礼を言って、寺を後にした。
 続いて、道路を挟んで斜め向かいにある「ビルマ戦線資料県立博物館」を訪れた。前の庭に錆で赤茶けた軍用トラックの残骸がいくつか展示してあるので、容易にここが目指す博物館であるとわかる。
博物館は1995年クンユアム警察署の署長チャートチャイ氏による発起で建設された。軍刀、銃、外套、持ち主の名前の書かれた水筒、飯盒など600点余りのおびただしい遺品が展示されている。いずれも保存状態がよく、特に外套など良くぞきちんと残っていたものだと驚愕した。これらのほとんどはクンユアム住民から提供されたものだ。博物館建設当時、ほとんどどの家にも日本軍の遺品が残っていたという。兵士はこれらと引き換えに食物などの提供を受けたとのことだ。傷つき飢えた兵士は略奪行為は行ってはいなかった、と博物館管理人は話してくれた。
 午後、クンユアムの町を後にしてメーホーンソーンに向かう。町を出たすぐ右側に、森が大きく切り開かれた平坦な所があった。日本軍飛行場跡であろうか。
 さらに行くと、かなり激しい山道になった。クンユアムから30キロ余りのところの村バーン・フアイポーンに、「日本軍兵士鎮魂之塔」が建っていた。碑の裏には「2000年11月吉日 倉敷有志建立」と記してあった。傍らの大木の前に遺体を埋葬したのだろう、大木には「戦友よ安らかに眠れ」と記してある。1998年、厚生省によってこの村で遺骨が収集された。
 撤退路の両側に点々と遺体が1キロにわたって転がっていたというのは、この辺りのことではないだろうか。ここが正に「白骨街道」だったのだ。
 慰霊碑に持ち合わせの水をかけた。
 さぞかし望郷の念が強かったであろう。無念。哀れ。・・・。適切な言葉が浮かばない。
 合掌。
 メーホーンソーンを過ぎると、道は更に険しくなった。ようやくパーイにたどりついた。パーイの先10キロのところには、日本軍の建設したパーイ川に架かる鉄橋が残っていた。パーイ川の辺にあるワット・パーカム付近には、かつて日本軍の基地や墓地があった(墓地は洪水によって流されてしまった)。
 この後、メーマライの町を通り過ぎ、チェンマイに戻ってきた。総距離700キロ余りだった。
 次回は日本の線香、日本酒を持参して訪れたいと思う。

クンユアム博物館については、ここをクリック!

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